北陸研修旅行 第三日目 報告
野中 孝弘
川崎、山田、進藤、渡辺、深作、野中、岐部、新井の計8名による市内観光でした。
今回は金沢出身・在住の川崎御大のガイドなので贅沢な観光ができると全員期待に膨らんでいました。

早朝7:20川崎さんがホテルに数種類のパンフレットを持ってこられました。
散策に持ち運べば、重い荷物となるからと9時の出発までに目を通すようにとのありがたい配慮でした。
9時に迎えにくるからとの言葉を残して帰られました。
皆さんにはこのパンフレットを朝食時配布しました。

予定通り、9時に川崎さんの迎えがあり、全員の荷物はフロントの近くのコインロッカーにあずけてホテルを後にしました。

尾山神社
街の通りを歩くこと3分にして最初のスポット尾山神社の入口に到着。
慶長4年(1599)に加賀藩の藩祖前田利家を祭り創建された宇多須八幡宮を、明治6年(1873)に卯辰山から移し、尾山神社としたとの由。
入口にある神門は明治8年(1875)の完成で、和洋中の三様式が混合されており、特に目をひくのは上部にあるステンドグラスでした。オランダ人の設計によるものであり、重要文化財に指定されているそうです。
尾山神社の神門  (#)
兼六園にて       
神門を抜けて正面にあるのが本殿で初代藩主の前田利家と奥方のお松の方が祭られており、その側にある小さな金谷神社には2代から17代までの藩主と奥方が祭られているとのこと。前田家では前田利家が別格扱いで子々孫々から尊崇されていたようです。
犀川の上流からの導水に使われた石管、前田利家公像、お松の方の像や遥拝所などを見ながらの朝の清々しいひと時を過ごしました。


金沢城公園
尾山神社の東門から出て次のスポットである金沢城公園には瞬く間にいもり坂口に到着しました。
金沢城公園は石垣めぐりとしても有名で、ところどころに石垣を作る加工法の説明が表示されています。
金沢城では野面(ノヅラ)積み、切り込みハギと打ち込みハギ方式が使われています。
野面積み
切り込みハギ
打ち込みハギ   (#)
石垣を見ながら歩いていくとやがて大きな広場(二の丸広場)に出てきました。そこには花壇が設けられ、ルピナス、ビオラスミレ、アルメリアといった外来種の花のオンパレードです。
きれいな花でしたが、金沢城という歴史散策の場所では純日本種の花こそふさわしいとの声もありました。
さて、次に案内していただいたのは本丸の森でした。一歩踏み込んでみると鬱蒼とした原生林を思わせる風情を感じました。昔は金沢大学理学部付属植物園で、自然の植生の復元に努めた結果、1980年代には、自然の森林に近い生態系ができていたといいます。スダシイやウラジロガシという大木も圧巻でした。森を歩いていると急にぱっと開けるところに出くわしました。それが辰巳櫓跡と丑寅櫓跡でした。そこから金沢市内が一望の下に見渡せて涼しい風と相まって一服の清涼感を感じました。

石川門を出る直前に石碑があり近寄って見るとる荀子の「学は以って已むべからず」という一文がありました。
川崎さんからはこれはかって金沢大学がここにあった証を残すために建てられたものだとのお話でした。
だれかにこの碑文はどういう意味だろうねと聞かれて、小生も分からなかったのですが、「大学での一文でもあるし、已むの已が己(おのれ)という意味があるから学んだことは自分ひとりの物にしないで他の人にも広めていきなさい」とでも言っているのでしょうかねと答えてしまいました。
帰宅してからインターネットで調べてみると学とは人生における真理のことを言っており、「真理を学ぶには止まることなく学びつづけることが必要である」ということでした。
質問をされた方にはこの場をかりてお詫びいたします。

兼六園
10時15分に石川門を出発、次のスポットの兼六園にもすぐに到着。
割引制度を活用し、全員フリーで入場。兼六園は国の特別名勝に指定されており、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで、日本三名園の一つに数えられています。
兼六園の水は犀川のおよそ10キロ上流の東岩取水口と平均勾配230分の1という勾配差を利用して兼六園の標高で一番高い位置に取水し、流れが曲水となって園内を流れ霞が池を満たしているそうです。
その完成は、加賀百万石三代藩主:前田利常の頃(1632年:寛永9年)で370年以上前とのこと。

まずは噴水を見学。上にある霞が池を水源とし、池の水面との高低差による自然の水圧であがっているとのこと。次のスポットは兼六園で一番有名な、徽軫灯籠(<ことじとうろう>足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ている)のある霞が池に足を運ぶ。
先程見た噴水への取水口の入口を川崎さんから教えてもらいました。 
池の中央にある亀甲島や展望台からの景観、唐崎松、根上がりの松を見ながら川崎さんはこれから曲水を見せるといって小さな坂道を登り始めました。





















すぐに上に着いてその先の方を見下ろすと小さな小川を見つけました。優雅なカーブを持った小川にやさしく水が流れています。高台にあるにもかかわらず豊かな水で園内に美しい曲水の美を実現している兼六園。その曲水の始点になるのがここではないかと感じました。
昔の日本には曲水の宴というのがあって、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる杯が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み(出来ないと罰として)盃の酒を飲むという優雅な遊びをしていたとも聞きます。
石川県立美術館
兼六園を後にして金城霊沢と津田玄番邸の玄関を見学した後、石川県立美術館に足を運びました。
石川県立美術館は石川県の美術工芸の姿を紹介することを目的として設立されています。

最初に案内していただいた第一展示室には野々村仁清の手による国宝「色絵雉香炉」と重要文化財「色絵雌雉香炉」の二点が展示されていました。国宝「色絵雉香炉」は当館の入場券にも印刷されているとおりの圧巻でした。 ほぼ等身大の雉の香炉で、京焼の祖といわれる仁清の作品のうちでも特にすぐれているそうです。上下二つに分かれ、蓋に4個の煙出し孔がうがたれています。緑、紺青、赤などの絵具と金彩で羽毛などを美しく彩った豪華な作品でした。
雉は雄の方がカラフルで美しいのです。また、尾を水平に保って造形、焼成するなど至難な技が駆使され、緊張感あふれる作となっていました。
  
国宝「色絵雉香炉」が印刷されたチケット  (*)
次の展示室では前田家の藩主所用の甲冑と陣羽織が展示されていました。
甲冑は3代藩主から14代藩主所用の7具(16世紀 〜 19世紀)、陣羽織は5代藩主から14代藩主所用の7領(17世紀 〜 19世紀)でした。
いずれも戦火を潜り抜けてきたものではなく、ずっと倉に大事に温存されてきたもののようでした。
その他には兜や鞍等も展示されていました。陣羽織の柄は太陽と荒波をモチーフにして統一されており、藩主ごとにそれぞれ色彩に変化を持たせていました。

次の展示室は古九谷の絵皿を主体にして展示されていました。
一番印象に残ったのは、重要美術品・石川県指定文化財に指定されている「色絵布袋図平鉢」という布袋さんをモチーフにした平鉢でした。
古九谷の人物を絵付した作品としてとくに優れ、古くから知られているそうです。円形の鉢で、円の窓中に布袋に稗をあしらった構図で、軽妙で奇抜さを感じさせます。黄・緑の二色を基調に、わずかに稗の穂の部分に赤を点じているだけですが、色彩効果が印象的でした。

伝統加賀友禅工芸展の精華として展示されている部屋では華やかな友禅染めの着物のオンパレードでした。豪華さと気品を漂わせる着物に圧倒させられました。
武家文化が栄えたこの地で生まれた加賀友禅は、公家風の優美で絢爛豪華な京友禅と違い、品格のある落ち着いた写実絵画調で、主として草花をモチーフとしているそうです。お茶会等にこういう着物を着て出席する女性はより一層の清楚な美しさを醸し出すことでしょう。
 
昼食と東茶屋界隈
昼食の時間となり、石川県立美術館を後にしてタクシーで自由軒という西洋料理の店に移動しました。
金沢で1番古い西洋料理の店と言われています。
川崎さんご推奨の店だけあって評判もよろしく、店に入ったときはほとんどの席が埋まっており、しばしのウェイティング。
全員同一のオムレツを注文しました。素朴でさっぱりしていて美味。しかし、午前中3時間の運動が効いたのか、今度来る時はよりボリュームのあるランチコースを選びたいとのことで川崎さんに試食の依頼をする方もありました。
昼食の後は自由軒からすぐのところにある東茶屋街の見学です。
昼食の後のせいかそれとも期待感の大きさのせいか皆さんの足取りが軽くなったような気がします。

ここは卯辰山麓にあり、お茶屋建の風情のある古い街並みを残して昔の面影をとどめています。
ベンガラ色の格子も美しく感じました。 
加賀藩・前田公による街割りでこの界隈に東茶屋街という遊郭ができたのが始まりで、遊郭なのに茶屋としたのは前田公の計らいなのだそうです。
誰かから川崎さんに「若い頃はよく足を運んだの?」という「際どい?」質問がでました。
川崎さんは声を落として「哀れな女性の姿を見るのが不憫でたまらず、足が向かなかった」との回答がありました。
川崎さんのやさしい心遣いにこちらもしんみりしてしまいました。
東茶屋界隈    (**)
さくだ金銀箔工芸
東茶屋街を出ると川崎さんは咄嗟に思いつかれたのか、ここも案内しようと言ってすたすたと先導してくれます。
ついこの前までは東芝病院で腰痛入院をされて悲鳴をあげておられたのに、その面影は微塵も見せず早い足取りで歩を進めます。
同じ腰痛持ちの自分は入院はしていないのに、今は川崎さんより遥かに苦痛度が大きいのは何故だろう。
川崎さんの自制力が強くて大幅に体重を落とすことが出来たからかな等と考えながら歩くまもなく作田金銀箔鰍ノ着いてしまいました。
着いて直ぐに金箔の作成行程の説明がありました。たたいて延ばしては切り紙の間に挟んでまたたたいて延ばしては切りを繰り返しては薄く延ばしていくのだそうです。
最終的には1/10,000mmの薄さになります。
最終段階でカッティングした時のハギレがお酒になどに入れて飲まれるのだそうです。
金箔は健康にも良いとか。
とすると、地球上の沢山の人間が金箔を食べたとしたら金は回収できるのだろうか等と考えながら実演の場所を出ると売店になっており、金箔製品がところ狭しと並んでいました。
進藤さんや岐部さんが金箔や金粉を購入したようです。七月の作品展を睨んでのことかと。楽しみです。
金沢蓄音器館
本日の観光も最終段階となりました。目指すは金沢蓄音器館です。
ここは昔懐かしい手回し蓄音器のコレクションを展示しています。戦前からの蓄音器店の経営者が昭和40年代のころから不要になった蓄音器の収集をはじめ、540台の蓄音器と2万枚ものSPレコードのコレクションとなったそうです。2001年7月金沢市が譲り受け金沢蓄音器館が開館したのだそうです。

展示品の中にはラッパ式の物もありました。ラッパ式の実物は始めての出会いです。
階には蓄音機が10台ほど一列に並べてあり、小さいものから順番にかけて聴かせてくれました。
帰りの時間が心配でありフルには聴けませんでしたが、それでも30分ぐらいは解説をいただきながら聴くことが出来ました。
小生の子供時代の蓄音機によく似たものもありましたが、このコーナーの目玉はなんと言っても2台置かれているエジソン式の蓄音器です。エジソンが発明したそのままの蝋を使った円筒状のレコード(蝋管)が聴くことが出来ることです。
アナログのレコードはどことなく柔らかい優しさがあります。そのせいか或いは朝からの観光で疲れたのか聴いて
いるうちにうとうとしてしまったようです。
はっと気がつくと、係の人が「このレコードを聞くと気持ちがよくなって眠くなるのです。アナログの方がデジタルよりヒーリング効果が大きいのです」という説明をしている最中でした。
小生の他にも眠った人がいたのかな。蓄音機は右側にあるのは筐体も大きくなっており、音も良くなっているようです。良い音にするにはラッパを長くする必要があり、筐体を大きくするのはその為だそうです。
蓄音器館でアナログの極致を聴く

        
まだまだ気持ちよく聞かせていただきたかったのですが、帰る時間がきたので蓄音機館を退出しました。
蓄音機館からはタクシーでホテルに立ち寄って荷物を受け取り、金沢駅に向かいました。
金沢駅百番街でそれぞれお土産の買い物をした後高速バスにて小松空港へ向かいました。
小松空港ではしばらくしてゴルフ組みも合流し全員そろって17:30 ANA758便にて小松空港を
後にし、18:35無事羽田空港に着きました。

川崎さんには3日間の現地幹事を至れり尽くせりの思いやりでサービスこれ尽くされたことに厚くお礼申し上げます。

                                                         


              写真撮影:川崎 野中(*)、山田(**)、、佐藤(#)
              
  なお、佐藤の写真は2003年度研修旅行時に撮影したものを使用しました。




川崎さんから金沢城は築城の名手高山右近によって作られたという話を伺いしました。小生の帰郷先の高槻の城主の高山右近がどうして金沢に出向いたのだろうという疑問が湧きました。帰って調べてみると高山右近は信長、秀吉の時代にはキリシタン大名として高槻城主となっていたのが、秀吉がキリシタンに対して厳しい態度をとるようになり、キリシタン禁教令をだすにいたって苦しい立場に追い込まれていたようです。その時高山右近は前田利家に招かれて金沢に赴き、そこで1万5千石の扶持を受領、金沢城修築の際には、建築家として参加したといわれています。
金沢城は黒い金属板で被覆された隅柱や海鼠(なまこ)壁の直線が白い城壁を際だたせる独特の近代的ともいえるデザインで名高いのですが、隅柱は防火、なまこ壁は屋根が届かない部分の雨水に対する防水対策で、機能面でも右近の先進的な築城法の一端が示されている例とされています。

こうした機会に色々調べることで、あらたな歴史の勉強になりました。やはり旅行とはありがたいものです。
黒い隅柱となまこ壁
平瓦を壁に貼り継ぎ目を漆喰でコーキングした海鼠壁
本丸の森を出るとそこは鶴の丸広場の休憩所でした。しばらく歩いていたのでグッドタイミングの休憩でした。休憩中も川崎さんの熱心な解説が続きます。
すぐのところに見える白壁の土塀には等間隔に外敵に鉄砲を撃つための鉄砲狭間が組み込まれています。通常は銃眼が塞がれていて外からは普通のなまこ塀にしか見えない、いわゆる隠し狭間になっています。
しかし、何かことが発生すると海鼠壁の平瓦を内部から打ち砕き、直ちに敵を狙撃する体勢がとれるようになっているとのことでした。これは徳川幕府にあらぬ刺激を与えないように配慮してのことであり、
加賀百万石が14代も続いて藩主を勤められたのもこういった深慮遠謀があってのことと感心しました。

つかの間の一服で元気を回復して石川門の方に向かいました。三の丸広場を通り、鶴の丸塀の外側からは先程見た鉄砲狭間が全く見えないことを確認しました。金沢城のシンボルと言われている五十間長屋、橋爪櫓、橋爪櫓脇門も素晴らしい姿を見せてくれました。
三の丸広場より鶴の丸塀と五十間長屋を望む
園内を巡る曲水
鶴の丸塀内側に設けられた鉄砲狭間