三八会事始め
   石怐@洋           佐藤 幹郎                            

石怐F三八会仲間の最初の出会いはもちろん「昭和38年 東芝トランジスタ工場配属」だった。

佐藤:入社式に始まり、本社の集合教育、2つの工場での現場実習が終わり、確かもう夏の始まった7月だったね。

縁もゆかりもなかった仲間が出会って、意気投合してからもう57年にもなる。親兄弟よりも長い付き合いになる。

しばらくすると、前年(昭和37)年入社の先輩たち(サナフミ会)から声がかかり、歓迎会をやるから工場のすぐ近くにあった従業員クラブ御幸荘(後のみゆきクラブ)に集まれとの指示が来た。

昭和37年組は当時の家電ブームもあり、歴史上最も多い700名以上の学卒新入社員があった。我々は19名だったが、歓迎会会場へ行ってみたら倍ぐらいの先輩たちがいて驚いた。

先輩が後輩の新入社員の歓迎会を行うのは会社からの申し送りで、「この義務」を果たすと大抵は同期会は解散というのが常道だった。

「喜寿記念文集」にも書いたのだが、東芝独身寮「日吉寮」で佐藤会長の講師で行われた「半導体勉強会」は同期会の仲間意識をより高めたと思う。勉強の合間合間に、職場の様子やら、気になる女の子の話などで盛り上がり仲間意識がいっそう高まったと思う。

次の年の新入社員が入ってくる直前に、日吉寮の一部の入寮者が菊名寮に移ることになった。小生も菊名寮へ行くことになった。別れ別れになるのが嫌だった。
このこともあって、われわれの「同期会」をもっと長く続けてゆける方策はないかと考えた。


多分、幹郎さんの発案だったと思うが、
「嫁さんをもらう時は、かならず皆の前に連れてきて紹介すること。嫁さんになるひとの面前であんたの悪事をばらし、それを肴にして一杯やる。これを結婚式を挙げる前にやらなければならない」
という掟を作ってしまった。

反対する奴が出るかと思ったが、全員「賛成賛成」で決まってしまったのは言い出しっぺには意外だった。


  冷やかし会結成の頃 昭和39年7月10日 逗子海岸東芝健保海の家にて


「冷やかし会」第1号は石恁Nだったよな。とにかく最初の会は豪勢にやろうと、当時
安月給の我々には身分不相応(?)な川崎日航ホテルを奮発して予約した。


皆さんさぞかし会費は高かったろうな! 冷やかし会の前夜は何をバラされるか心配で
眠れなかった。俺の結婚式は1965年年(昭和40年)11月23日だったから、あれからもう
55年も経つ。お互いよく我慢しているよ。

あの頃は、今と違ってみんな結婚が早かったな。会社も社会も「身を固めてこそ一人前の社会人」という風潮があった。

第一回のときは今でも鮮明に憶えている。数日前から風邪を引き、会社へは行っていたが
明日は大事な石怩フ冷やかし会、幹事として大事をとって会社を休んで、夕刻、朦朧とした頭で寮から日航ホテルに直行した。 
冷やかしをあおる役だったはずが、風邪でフラフラ。
とにかく早く終わるのを静かに祈っていた。そのせいか、ご両人を上座に飾り、皆さんなごやかに楽しい酒を飲んだと後で聞いた。


その後、1969年(昭和44年)10月、小生は「大分工場建設事務所」勤務を命ぜられ、
3番目以降の「嫁さん披露の儀式」には出席出来なかったのは至極残念に思う。



それはあんたの記憶違いだ。俺の冷やかし会は1969年の4月。あんたが転勤する半年前。
そして、俺の結婚式は1969年6月15日で、三八会ではラス前。この時点で杉岡君以外は全員
結婚していたから、あんたはほとんど全部の冷やかし会に出席しているはず。


そうだったか。当時は5年ぐらいの間に皆ぞくぞくと結婚したんだ。

石怩ノ続く2番目はたしか深作君だった。
当日の昼過ぎ、深作君の職場に確認のため電話した。庶務の女性が出て、「深作さんは本日休暇をとっています」とのこと。
ありゃ~真面目な深作君のこと、冷やかしを恐れてドタキャン!?かと一瞬疑った。
だけどその日の席上で、彼から嫁さんになる女性を実家からエスコートするのに、高崎まで行っていたと聞いて、納得したり、感心したりしたもんだ。


たしかに。職場結婚の場合には問題にもならないが、「結婚前に、うちの娘を夜の川崎くんだりまで何で引っ張り出すんだ?」と思われても不思議じゃなかった。

当時の川崎は公害で空気が汚い、工場の町というあんまり良くないイメージがあったからね。

さっき言ったように、みんな5年ぐらいの間に続々と結婚したから、冷やかし会も2組同時に開催というのがあった(誰と誰の時だったかは記憶がない)
2組を上座に飾っての宴席は冷やかし会史上のクライマックスだった。


冷やかし会の「大トリ」は杉岡君だった。

いつだったかはもう忘れたが、広瀬君の妹さんを娶ったと聞いたときは一同ビックリだった。さっき親兄弟より長い付き合いという話が出たが、この会の中で、義兄弟・親戚が生まれたのだから、何か不思議な巡り合わせを感ずるね。

定年がそろそろ迫ってきた頃、「冷やかし会」を別な形で再発足させようという機運が高くなり、
「第一回三八会」が1997年9月26日、東京品川にあった東芝会館で11名の仲間が集い、再スタートした。


  第一回三八会例会(於東芝会館)

トランジスと工場配属時とはメンバーに若干の変動はあったが、会員数は同じ19名だった。
席上、三八会名簿をを配布し、幹郎さんに会長就任をお願いした。
あれから23年、飲み食いだけではなく、マレーシアへの旅、金沢や北海道への研修旅行、
10年間も続けた作品展、それに喜寿記念文集の出版などいろいろやってきた。
この度、幹郎さんの手で、これまでのほとんど全ての活動記録が「永久保存版」として残されることになった。
このことは子や孫達へ「我が人生」の自慢話を残し、また冥途への良い土産にもなる。
誠にありがたいことだ。