東芝 旧トランジスタ工場訪問記
                      (文と写真)佐藤幹郎




川崎駅に集合
10月21日、9:30JR川崎駅の時計台下にマスク姿の老人達が三々五々集まってきた。

三八会のメンバーが集まるのは5ヶ月ぶり。

私自身はいままで多くの宴会でお世話になってきた鶴見にあった東芝第八寮へのお別れ会をそこで開催してからだから、すでに2年の時が流れ去っている。
いずれにしても、コロナ感染の影響はわれわれの活動を大いに制限してきた。

しかし、今回はコロナの感染状況など関係無しに、川崎駅に集結する特別な理由があった。
その理由は、われわれのかっての東芝生活の故郷ともいうべき旧トランジスタ工場が近く取り壊されることが決まったからだ。
思いは唯一つ、解体される前にその姿をこの目に焼き付けておきたい。

何と言っても我々の青春の日々を送った想い出深い場所なのだ。
          

         
東芝のランドマーク計画
2020年8月、東芝小向事業所内に先端技術開発のランドマーク「研究開発新棟(仮称)」
を建設することを発表した。2022年1月に着工し、2023年4月の稼働を目指すという。

6月にこの開発行為に伴う環境影響評価準備書が川崎市に提出され、7月縦覧期間が完了した。

以下この準備書により、いままで詳細が不明だった「旧建屋の解体範囲」が明らかになった
1)旧総研の本館は、約半分が解体され、一部が緑地、残りが高層棟となる。
2)本館裏の開発・実験棟はそのまま。
3)旧トランジスタ工場は旧第一工場は全て解体、第二工場はそのまま残る。






  
上記、図面および写真は東芝が川崎市に提出した「研究開発新棟(仮称)建設計画に関わる条例環境
影響評価準備書
」(令和3年5月 株式会社東芝)より引用

そうこうしているうちに、色々情報が集まり始め、11月には準備工事に入り、解体が始まるかも
しれないとのことがわかり、直ぐにでも見学を計画しようと石塚さんが手配を始めた。

10月21日10時に訪問見学することが決まった。
川崎駅東口から上平間行きのバスに乗るとばかり思っていたら、西口から小杉駅方面行きのバスに乗り、
小向交番前で降り、研究開発センター(旧総研)の通用門に来るようにとの指示をもらった。
どうやら、旧第一工場はすでに無人の状態で、第二工場にわずかな人員が「小向事業所 半導体システム
技術センター分室」という形で残っている状態らしい。そのため、旧トランジスタ工場の御幸公園側と
古市場側の二つの通用門は既に閉鎖されているという。

JR川崎駅西口から
集合場所の時計台下に10名の参加者がそろったところで、西口北にあるラゾーナ広場バスセンターへ。
誰かが言った。
「堀川町工場への国鉄の東芝専用口ってこの辺りだったよな」

   
    ラゾーナ広場バスセンター

小杉駅前行きの東急バスに乗り込む。多摩沿線道路から久しぶりに眺める景色は大分変わった。
高層マンションが目立つ。
やがてバスは小向本通りに入る。妙光寺の屋根とコンクリートの塀、その内側に多数のお墓が建って
いる景色が懐かしい。道の両側のちょっとゴチャゴチャした木造の家並みは昔のままのように見える。

  
    研究開発センターへ向かう(小向本通り)

やがて進行方向正面に研究開発センターと小向交番が見えた。
「小向交番ってこんなに大きく立派だったっけ」
「昔はもっと小さくてポリスボックス的な感じだった」
と誰かが言う。

  
   小向交番

バスを降りると、正面は研究開発センターの通用門。
守衛室のところで、東芝デバイス&ストレージ株式会社の安藤さんが待ってくれていた。
堀川町にある半導体システム技術センターからわざわざ我々のために来てくれていた。

いよいよ旧トランジスタ工場構内へ
入門証を交付される。構内は撮影禁止なので、スマホのレンズに特殊なテープを貼付するように求められる。
「見学の途中でコッソリ剥がしても、わかってしまうような特殊なテープですよ」との説明があった。
後で、剥がしてみるとたしかにTOSHIBAという文字が浮き上がるのが確認出来た。
別に持って行ったカメラは旧トランジスタ工場の構内に限り撮影してよいということで、携行が許された。

  
 スマホ撮影防止テープ 剥がすと文字が浮き出る

研究開発センターの正面玄関を左手に、旧トランジスタ工場へと向かう。
工場へ近づくと、玄関前に植えられた椰子の木が建物とほぼ同じ高さまで大きくなっていたのに
一同驚く。
あれから58年もの月日が流れたのだと、しみじみと思う。


 椰子の木があんなに伸びた!


 
 旧第一工場と旧科学館の間。バリケードが張り巡らされ、予備工事が始まっていることを示す
 芝生の草がぼうぼうに伸びているのは人が住まなくなってから久しいことを示しているのか?、、、

工場の玄関前の駐車スペースには、工事会社の車がぎっしりと並んでいる。解体に向け準備が着々と
進んでいるのを実感した。

二つの記念碑
安藤さんが二つの碑を案内してくれた。

一つ目は「東芝トランジスタ発祥の地」昭和26年1月東京都江東区にあった砂町工場に建立された。
碑の裏には昭和35年7月にここに移設されたと記録されている。
これはわれわれも見覚えがある。
我々が入社したときは、まだ砂町工場が存在して見学にもいった。かっては大日本精糖の工場だったのを東芝が買収したのだと新入社員として説明を受け、太い木造の梁が黒光りしていた様子が記憶に残っている。

  
   「東芝トランジスタ発祥の地」の碑

もう一つは「東芝MOS LSI発祥の地」なる碑。これは初めて見るものだ。他の連中に訊いても知らない
と言う。

  
   「東芝MOS LSI 発祥の地」の碑

切り株のような石の上に、釣り人が糸を垂れるという意味不明の「謎のデザイン」
細部を見ると、システムLSI R-10000とある。
調べてみると、1996年3月期の東芝の年次報告書、半導体の営業概況の中に、
「マイクロプロセッサーの分野では最上位機種の64bit RISC型R10000のサンプル出荷を開始しました」
とある。これから1996年以降に建てられたものと推定されるが、、、、

  
   チップやらウェーファが埋め込められている

いずれにせよ、これらの碑は新開発棟完成時には、どこかその一角に移設されるのであろう。

第一通用門
工場の玄関から、御幸公園前の第一通用門へと回る。人の出入りがないため既に閉鎖されていると聞いていたがその通りであった。

  
   閉鎖されている第一通用門

いまは無人となった守衛室を眺めていると、通称「碓井事務所」と呼ばれた部屋がこの二階にあり、
しばしば足を運んだのを思い出した。

成田空港建設反対運動いわゆる成田闘争が起きたころ、これに乗じた新左翼運動が激しくなった。
工場の従業員のなかに左翼政党に入るものや、臨時工募集を利用して潜り込んでくる過激派がいた。
これらの動静を探るために、勤労課に専任の碓井さんという探偵もどきのひとがいて、守衛室の二階に机を置いていた。
問題のありそうな社員がいる職場の課長は、頻繁にここを訪れ、彼と情報交換と打ち合わせを行っていて、私もその一人であった。
同じような課員がいて苦労した小野さんの話を思い出した。彼もここに出入りしたはずだ。


   
   碓井さんが机を置いていた守衛室二階     守衛室にあった郵便室

守衛室を見ていたときに、郵便室の表示を見て懐かしがる連中がいた。どんな想い出があるのだろう、、、
皆それぞれがこの工場で過ごした時の思い出が蘇るのであろう。他人が聞いていようが、いまいが
勝手にそれをまくし立てるので、なかなか足が進まない。
促されてやっと中庭の方向へと歩みを進める。



 口々に思い出を言い合う面々           中庭の方向へ(この建物も解体される)

中庭の噴水
第一工場と第二工場の間には噴水があり、中庭と呼ばれていた。かっては白衣と頭巾をつけた若い女性
従業員の憩いの場であった。
いまは水もなく、長い長い時間の経過だけが残っている。


                中庭の噴水今昔


中庭から見える景色(第一工場通路)

  
   中庭方向から第一工場通路を望む

第一工場の通路も懐かしい。ここを多くの人や品物が第二工場との間を往復した。
ほの暗い通路の奥は総務、経理、勤労の事務所につながっていた。
また通路の途中右側には貨物用エレベータがあった。 


佐波社長の決断(UL研)
第二工場の方角を見ると、UL研が見えた。
東芝の全社半導体プロジェクト(W作戦)の基礎ともいうべき
一つがこのSプランと呼ばれた超LSIの開発研究棟(UL研)であり、もう一つは大分工場でその量産ラインとして展開されたトリプルCクリーンルームであった。

  
   UL研の建物(左)、右が旧トランジスタ工場第二工場

1980年、私は大分工場に勤務していた。UL研開発棟の投資は決まっていたが、量産ラインのトリプルCは
次年度以降とされていた。
私は工場長とともに、就任するや真っ先に大分工場視察に訪れた佐波社長に、SプランとトリプルCの同時発進の必要性を直訴した。
東芝が64KDRAMでN社に遅れをとった最大の原因は、開発と量産をシリアルにやったからだと、、、。
次の週に本社の企画担当部長が工場にやって来て、この「直訴事件」がけしからんと、今で言うパワハラもどきに、こってり油を絞られた。
この部長が声を荒げている最中に本社からの電話で呼び出された。
部屋に戻ってきた彼が言った。
「佐波社長がSプランとトリプルCの同時発進を決断されました」
東芝が1MDRAMの世界制覇に向けて船出した瞬間であった。

結局、見学と言っても旧第一工場の周囲をぐるりと回っただけに過ぎなかったが、皆それぞれの思い出を
蘇らせながら、心満たされて開発研究センターの通用門に戻った。

これで見学は終了。また研究開発センターの通用門に戻り、そこで見学の記念品として、
東芝マイクロエレクトロニクスセンター50周年記念誌(2008年5月)を頂く。
トランジスタ工場も含めた、旧(半本)の50年の歴史が記録されたものだ。

ご案内いただいた安藤さんにお礼とお別れを言って、川崎駅行きのバスに乗り込んだ。

         
          いただいた記念誌

打ち上げ
打ち上げというか例会というのか、駅からかねて予約済みの川崎日航ホテルの中華レストラン福盈問へ。
  
  
   福盈問

 
  乾杯!乾杯!!

早川さんの発声で乾杯する。彼は今日は自分のために乾杯すると挨拶した。
今日は俺の誕生日だと。 何よりも元気で目出度いかぎり。

料理が出始めるとビールがどんどん進み、ビールお変わりとともに紹興酒を飲み始めるひとも。


 料理の数々。他にも沢山あったが飲み食いに忙しく、、、、

「飲み放題」はコロナのため90分間となっていたが、120分間大目に見てくれたようだ。
何時ものことだが、80を越える老人どもが凄まじい飲み食いぶりだ。
一人ほとんど飲まない男がいるので、9人で紹興酒のボトル5本が空になっている。

2時近くにお開き。それぞれ家路につく。
駅東口の交差点で信号待ちをしていると、広瀬君が後ろからやってきた。
「やぁ、荒木田は?」 荒木田、佐藤、広瀬は元はと言えば馬堀海岸、追浜、金沢文庫の京浜急行組。
私は京急川崎駅近くのホテルに向かうのだが、、、
荒木田と一緒に出たが、「歩くペースが合わないから先に行ってくれ」と言われたという。
「俺もまたその台詞をあんたにそっくり返すよ」と言ったら、彼はさっさと先に信号を渡って
駅の方に消えていった。     〜日々是好日〜