 

瑞泉寺参道にて
今回の山八会は鎌倉幕府の興亡を巡る歴史を振り返る散策である。
9月も下旬に入ったにも拘らず真夏の暑さで、さながら猛暑中の行となったが、乾燥した空気で多少助かった。
参加者は、阿川、石塚、大川、柏木、進藤、杉岡、浪本、広瀬の8名。
JR鎌倉駅東口改札を出た所に9:50集合、10:00発のバスに乗る予定であった。
しかし、高齢者は気がせくらしく、みな早く集まったこともあり、9:40のバスで鎌倉宮へ向かった。10分余りで鎌倉宮に到着した。
鎌倉宮を横に見ながら、最初に、本日の一番遠い錦塀山瑞泉寺へ向かうことになった。
途中地味な花が咲いていた。
Aさんが写真を撮れと言うので、撮ったが名前が分からない。
Iさんがスマホで調べてくれたが、その名前は3歩ほど歩くと忘れてしまった。
昼食後仕立屋を出た所で再度聞いたが、また忘れた。それでこの花は割愛することにした。花の名前は、後刻Iさんからイタドリとの連絡を貰った。
レポーターにも拘らず、歩数計も筆記用具も忘れた。忘れることが得意技の一つになってしまった。
鎌倉宮バス停からだらだらと20分余り歩いて瑞泉寺辺りに来た。
山門らしきものがあり、瓦には瑞泉寺と彫ってあった。
しかし、ここは通行不可で横を通る。瑞泉寺の入口には料金所がある。
200円を払い入門。

第一の山門か

瑞泉寺入り口の料金所
ここは鎌倉時代から室町時代に入った頃に夢窓疎石(夢窓国師)が開いた臨済宗円覚寺派の寺院で、鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられる格式のある寺院である。
後醍醐天皇や足利尊氏らも深く帰依していたと言われている。
夢窓国師の石碑があったが、風化して読めないので、写真は割愛。

ゆかりの文人の紹介(誰となしに山八会の凡人も紹介したいなあ)
苔むす旧道は避けて新道を昇る。山門前には「松陰吉田先生留跡碑」があった。

松陰吉田先生留跡碑

吉野秀雄の歌碑
鎌倉の住人で、瑞泉寺をこよなく愛したという歌人吉野秀雄の歌碑もあった。
齢八十になっても、なお悟りに達していない我々のことを詠ったのであろうか。
山門付近には色々な石碑が建っていた。風化で読めない石碑もある。山門を入ると錦塀晩鐘がある。その横の藤棚の下で一休み。

錦塀晩鐘 藤棚の下で暫し休憩
幹事から瑞泉寺ゆかりの解説があったが、みな上の空。レポーターとしてはよく聞いておくべきだったと猛省。
幹事からの飴の差し入れで元気を取り戻し、いよいよ本殿へ。

本堂への参道
参拝後、夢窓国師が作った庭を眺める。えっこれが庭なの?!と言う感じ。
日本で始めてての「岩庭」であり、土や木に埋もれていたものを、昭和45年に
「発掘」復元したものだという。

夢窓国師によって造られた瑞泉寺庭園「岩庭」

岩庭をバックに
庭の周辺には酷暑にもかかわらず、いろいろな花が咲いていた。
芙容、赤と白の彼岸花、百日紅(サルスベリ)に秋明菊もひっそりと咲いていた。。

赤いヒガンバナ 白いヒガンバナ

遠くに百日紅 ひっそりと秋明菊
次は、永福寺跡。ここは鎌倉幕府の始まりに源頼朝が建立した寺院跡である。奥州合戦で散った義経や奥州藤原泰衡らの武将達の鎮魂を祈る大寺院であったが、後に焼失した。
平泉の中尊寺二階大堂大長寿院を模して建立したので二階堂とも呼ばれている。
当時は、二階堂、薬師堂、阿弥陀堂が並ぶ壮大な大寺院であったという。
鎌倉市がこの土地を買収して史跡公園として整備している。丁度出会った整備のおじさんに話を聞いた。田圃だった土を掘り起こし、かつてのように池を作った。田圃のいい土なのにそれを捨ててしまい勿体ないと嘆いていた。ここでの写真には先を急いでいた二人は写っていない。
永福寺跡の説明パネル

整備のおじさんに話を聞く

永福寺跡を背景に*
いよいよ元に戻って、鎌倉宮へ。護良親王の墓参りは階段と暑さのために今回は割愛となった。
鎌倉宮参拝の前に涼しい休憩所で一服。鎌倉宮は後醍醐天皇の皇子である大塔宮・護良親王を祀るために明治天皇が明治2年(1869年、天皇17歳の時)に創建され官幣中社に列格された。
足利尊氏や新田義貞らによって鎌倉幕府が打倒され、後醍醐天皇が政権を天皇に取り戻した。
この建武の親政で護良親王は征夷大将軍・兵部卿に任じられたが、足利尊氏と対立して鎌倉に幽閉され、後に尊氏の弟である直義により殺害された。
建武の親政は短期間であったが、数百年を経て王政復古・明治の親政になったので、明治天皇の特別な想いがあったのだろう。

鎌倉宮の門前

本殿の前で*
鎌倉宮ではご神前で各自祈りを捧げた。皆さん何を祈ったのかなあ。
かつて吉野城落城の折、護良親王の身代になった死んだ忠臣村上義光の像があった。

鎌倉宮で祈る

村上義光の像
建武の親政は旨くいかず、足利尊氏と対立するようになり、再び武家政権の室町幕府の時代になる。
建武の中興の立役者としては、先ず護良親王や足利尊氏、新田義貞であるが、洗脳されていた私には楠木正成が真っ先に思い出される。
楠木正成は天下の名将であるが、旧日本軍の軍部に利用されたので、最近では表舞台には出なくなってしまった。
最後まで後醍醐天皇に忠誠を尽くし、多勢に無勢にも拘らず朝敵となった足利尊氏と戦い、華々しく散っていった。戦前までは忠君の烈士、軍人の鑑として祭り上げられていた。
私が小学校に入学した昭和20年には、学校には二宮尊徳の像と共に楠木正成の騎馬像があった。
この騎馬像はいつの間にか無くなっていた。
若い人は知らないであろうが、当時天皇は現人神であり、直接見ることは許されない存在であった。
その天皇に忠誠を尽くした楠木正成は軍略にも優れた皇軍軍人の鑑として崇められていた。
教育勅語も知らないであろうが、校長先生が講堂の壇上奥の右側の扉から恭しく巻紙を取り出し、
「朕惟ふに我が高祖高宗・・・・教育の淵源亦実に此に存す・・・・御名御璽」
と読み上げていた。意味は全く分からなかった。
小学1年生はまだ暗記しなくても良かったので、一部分しか覚えていない。
巻紙を取り出すところから仕舞うまで頭を上げることは許されないが、先生達も頭を下げているので、危険を冒してそっと見た。ばれると鉄拳が飛ぶのは必定であった。
当時は殴ることは男児を鍛える一手段であった。戦争では多くの軍人が死傷しており、昭和20年になると民間人も多数死傷していた。殴ることで障害が起こってもそれは微々たるものである。全く恐ろしい時代であった。
私は病弱小柄で意気地なしの劣等生であったので、コクゾウムシ扱いであったが、2学期からは多少自由な雰囲気になり、響きが面白いので「チンおもうに、あいつは悪い奴で、天罰が下るだろう。ぎょめいぎょじ」などと言って遊んでいた。先生に見つかれば未だ往復ピンタものであっただろう。いやいや、これらは全く余分な話である。
今回の散策はこれで終わり、いよいよ昼食である。鎌倉宮からの帰りは赤い特別なバスであった。
12:20発の予定であったが、ここでも早く11:55発に乗った。
食事場所は山八会おなじみの食堂「仕立屋」鎌倉店へ。Kさんは所用でここでバイバイ。
料理は、アジフライ御膳。生ビールはクーポン利用で無料、ここでも幹事の配慮に深謝。

先ず生ビールで乾杯

アジフライ御膳
夏バテ気味の爺さんたちは、今回はケーキタイムなしで、1時10分解散となった。
歩数は広瀬画伯の歩数計で7,218歩、当初の想定を上回った。
暑さに負けず、落伍者もなく、元気溌剌の楽しい山八会であった。
~おわり~
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