九品仏 広瀬和宏
九品仏の由来
以下「九品仏浄真寺」より引用
広い境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体のそれぞれ印相の異なった阿弥陀如来像が安置されています。この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼん・じょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらを合わせて九品といいます。この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれています。
このような九体阿弥陀は、他に京都の浄瑠璃寺に見られます。
これは『観無量寿経』に説く九品往生の思想に基づくものです。極楽往生の仕方には、信仰の篤い者から極悪人まで9通りの段階があるとされます。浄真寺の九品仏の場合、阿弥陀如来の印相の内、定印(密教で、定に入っていることを示す両手をへその下で重ねる形を「上生印」、説法印を「中生印」、来迎印を「下生印」とし、親指と人差し指(中指、薬指)を接するものをそれぞれ「上品」「中品」「下品」に充てる。日本に おいて近世になってから考え出されたもののようである。
阿弥陀仏の写真はこのホームページから見ることができました。
お堂も下品堂・上品堂・中品堂とわざわざ3棟に別れています。上品堂の阿弥陀仏は、座禅をするときの法界定印に手を組んで瞑想しています。鎌倉大仏の阿弥陀像と同じです。与願印と同じで、手のひらは上を向いています。
これに対し、下品堂の阿弥陀仏は左手は「与願印」とし、「施無畏印」の右手を礼拝者に向け、気を与えるサービスをしています。中品堂の仏像には、両手共施無畏印の像もあります。下品堂に来る信者は、自分では瞑想や深い祈りはしない人、宗教の修行ができていないと思う人でも阿弥陀像から気を与えて頂けます。

信者は当初、阿弥陀仏とは離れた存在であると感じています。やがてその間に愛が入ってきて、人は阿弥陀仏に近づき始め、阿弥陀仏も次第に人に近づいてこられます。人は仏性、仏ごころを感ずるようになります。阿弥陀仏はこれらのすべてとして存在します。そして祈る人の終着点には、「自分は完全に礼拝の対象にとけこんだ」と感じるときに到達します。我々はすべて自分への愛から出発し、ついに光の目もくらむ輝きがやってきて、その中で小さな自己は、無限者と一つになります。人がこの愛の光の前で変容をとげ、ついに自分と阿弥陀仏は一体であるという霊感を与える真理を悟るのです。
阿弥陀仏はサンスクリット無量寿仏=アミターユス 無量光仏=アミターバ のアミタ の音写です。
両手の平を上に向けて両膝の上に置く【与願印】。「アナタの願いを叶えますよ」という意味の印で仏様が組まれる印です。この与願印を瞑想実践者が組むことで、「仏様が誓われたワタシの願いを叶えるという、願いを叶えて頂ける」という気持ちを、与願印で表すことになります。そして仏様が組まれる施無畏・与願印と、アナタが瞑想中に組まれる与願印の間で、仏性と呼ばれる願いを叶えるパワーが循環します。仏様(潜在意識)は、「アナタの願いを叶える」と誓われる。アナタは「ワタシの願いを叶えると誓われる、仏様の願いを叶える(その結果として願いが叶う)」。与願印を通して、仏様とこのようなやり取りを行えば、願いが成就されるパワーが永遠の循環として、最速で、但しちょうどよい内容で成就します。
横山紘一師の仏像観
最終的には、釈尊みたいに無上正覚を得ることを高い目標にすべきですけど、悟るまではいかなくても気づこう。私自身もまだまだ最終段階に至ってませんが、毎日我が家の達磨大師の前でお唱えして、「頑張りますよろしく」って言うんですよ。そしたら、何年前かニコッと笑って、「頑張れ」って言うんですよ。あなた笑われたでしょう。仏像も心の中の影像なんです。自分の心のありようが変われば、仏像も変わってくる。ここが大事なこと。だから拝めば拝むほど、その仏像のありよう表情が変わってきます。これはいろんな方々、僧侶たちが体験され、言われることです。皆さん拝まれるこの釈迦如来像、これも心の中にあるわけです。だからあなたが変われば変わってきます。皆さんが見てるこの釈迦如来と、私が見てる釈迦如来は別なんです。
九品仏浄真寺パンフレットより引用
[上品上生の往生を願いましょう]
私たちは亡き方々とは、この世で二度と再会することが出来ません。亡き人はどうなるのでしょうか? 生前に阿弥陀佛にすがり、お念佛を称えた人であれば、阿弥陀佛の本願の力により、極楽浄土の蓮華中に往き生まれることができます。九品往生中、上品上生に往生の人は、蓮華が即開きますが、上品各生に往生できる人は極稀でしょう。下品下生に往生の人は、蓮華が開くまでに極めて長い時がかかると言われております。
そこで、亡き人が極楽浄土に往生し、蓮華が開く喜びの日が一日も早く訪れることを願い、残された私たち法事を勤め、念仏を称えて亡き人の為に、念仏の功徳をご廻向させて頂くのです。そしていずれ、故人と極楽浄土での再会を期するのです。上品は、大乗に遭える凡夫、中品は、小乗に遭える凡夫、下品は、悪に遭える凡夫と各々に遭遇するご縁によっています。しかも九品の総ては凡夫であると法然上人は教示します。
今私もここに大乗の究竟、念仏に値遇を得ました。さあ念仏申し上品往生を願いましょう。
(以下略)
[上品堂、中品堂、下品堂の説明]
「観無量寿経」の九品について (「九品佛縁起」から大本山善導寺法主阿川文正記述)
浄土宗の経典である浄土三部経の中の「観無量寿経」には極楽に往生を願う人の性質や行業(行為)によって、九種に分けられた往生人の階位について説明されております。またこの階位に応じて往生のありさまや往生後の特益についても、それぞれ相違が生じて参ります。
ここでいう九種の階位とは、上品・中品・下品という三つの階位のそれぞれを、更に上生・中生・下生に分けて、上品上生から下品下生までの九段位としたものであります。これを行業の面に限って略説しますと・・・・
[上品上生とは・・・]
至誠心・深心・廻向発願心の三心を具足する事であります。
次に慈悲心をもって殺生せず、菩薩の大戒をたもち、大乗経典を読誦することであります。この人は臨終の時にあたり、阿弥陀仏と観音・勢至および浄土の大衆の来迎をうけ、金剛台に乗って浄土に往生し、ただちに仏や菩薩の御姿を拝し、光明や宝樹の説法を聞いて無生法忍を得て、諸仏より未来成仏の予言をうけるのであります。
[上品中生とは・・・]
大乗経典を読誦はしないが、その教えを理解する人をいいます。つまり大乗の諸法皆空の道理を理解し、世出世の因果を信じ、この功徳をもって廻向して往生を願う人であります。
この人は命終にあたり、阿弥陀仏と観音・勢至および浄土の大衆の来迎をうけ、金剛台に坐して往生されます。一夜を経て蓮華が開き、仏の教えを聞いて、七日を経て不退転に入り、一小劫(きわめて長い時間の単位)を経て無生法忍(一切は空との実相)を悟るといわれます。
[上品下生とは・・・]
因果の道理を信じて、大乗の教えを誹謗することなく、菩提心を発す人であります。そしてこれらの功徳を廻向して往生を願う人であります。
この人は臨終にあたり、阿弥陀仏と観音・勢至および浄土の眷属の来迎をうけ、金剛台に乗って往生します。一日一夜を経て蓮華が開き、三七日を経て仏を明瞭に拝する事ができて、水鳥や樹林の妙法を聞きます。三小劫(きわめて長い時間の単位)を経て菩薩の初地(位階)に入ります。
[中品上生とは・・・]
小乗の五戒や八戒などをたもち、五逆罪なども犯さず、これらの功徳を廻向して
往生を願う人であります。
この人の臨終には阿弥陀仏が春風とともに来迎され、仏の教えをきいて、蓮華台に乗って往生されます。ただちに蓮華が開き、四諦の教えを聞いて、阿羅漢(小乗仏教で、修行によって得られる四果の最高位で尊敬を受けるに値する人)の位に入って、八解脱の知恵を得るとされています。
[中品中生とは・・・]
小乗の一日一夜の八戒斎や沙弥戒をたもち、身・口・意三業の威儀をまもり、これらの功徳を廻向して往生を願う人であります。
この人は臨終に阿弥陀仏および眷属の来迎をうけ、七宝蓮華に包まれて往生します。そして七日を経てのち華が開き、教えを聞いて須陀洹果(小乗仏教で修業で得られる四果の初果)を得て、半劫(きわめて長い時間の単位)ののち阿羅漢を得るとあります。
[中品下生とは・・・]
社会的善根たる五倫五常の道、いわゆる父母に孝養をつくし、世間の道徳をよく守り、慈悲をほどこし、この功徳をもって往生を願う人であります。
この人は臨終にあたり善知識(正しく浄土に導く人)より極楽や阿弥陀仏の四十八願などのことを聞いて命終します。そしてただちに浄土に往生し、観音・勢至の両菩薩より教えを聞いて、一小劫を経て阿羅漢の位に入るとあります。
[下品上生とは・・・]
悪業を重ねて慚愧懺悔する事がないが、この人は臨終に善知識により、大乗経典の名字を讃するのを聞き、また合唱又手して「南無阿弥陀仏」と唱えることができた人であります。
やがて五十億の罪が消えて、化仏・化観音・化大勢至の来迎をうけて宝蓮華に乗じて往生され、七七日を経て華がひらき、観音・勢至の両菩薩より教えを聞いて、十小劫を経て初地の位(菩薩の階位)に入るといわれます。
[下品中生とは・・・]
五戒・八戒・具足戒(不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語・不飯酒戒など・・・)を犯し、教団の共有物を盗んだり、名聞利養のための説法をしたりして、臨終には地獄の猛火にせめられる人であります。
この時に善知識から阿弥陀仏の十力や光明の威神力を聞いて命終致しますと、八十億劫の罪を滅し、化仏・化菩薩の来迎をうけて往生されます。そして六劫の間を経て蓮華が開き、観音・勢至より教えを受けて菩提心(祈りを求める心)をおこすといわれます。
[下品下生とは・・・]
十悪罪(身・口・意で犯す殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴)を犯し、当然地獄に堕するような悪業を重ねたものであるが、幸いにも教えをうけ、南無阿弥陀仏をとなえて十念を具足した人であります。
それによって八十億劫の生死の罪が消えて金蓮華を見て往生されます。そして十二大劫を経て蓮華が開き、観音・勢至より教えを聞いて菩提心をおこすのであります。
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