横須賀散策〜坂の上の雲コース〜

                      (文と写真) 柏木正弘



この度の散策者は、石塚、杉岡、広瀬、深作、荒木田、阿川、浪本、柏木(報告者)、の計8名。
天気晴朗にして風穏やかな一日。
石塚幹事により、悪天候予想によ る当初日程の変更(10/28 → 11/18)が行われたが、これが大当たり。
コースは、ヴェルニー公園散策 → 三笠公園まで散策 → 戦艦三笠見学&周 辺散策→ 京急横須賀駅周辺で打ち上げ。

JR横須賀駅、9:00集合。筆者にとっては殆ど初めての駅舎、少々疲れ果てたような古い建屋、駅舎出口に掲げられている碇とカモメの駅の シンボルマークが妙にアンバランスで、有名な「横須賀」なる地名に比して、ちょっと寂しい感の駅。しかし、ものの資料によると「階段のない特徴 的な駅舎」とか。

「三笠」は、軍国少年ではなくても我々の世代までは誰しも識る誇らしいかつての日本の軍艦である。
しかし、「ヴェルニー公園」となると、少なくとも 筆者にとっては初めて聞く名前だ。


1.ヴェルニー公園 … 横須賀製鉄所

駅舎を出てみれば直ちに公園のフェンスの向こうに広がる港の岸壁風景、
横須賀の港の波たつ海面、すっきりした青空の下、軍艦散見、視界の左隅には瀟洒な小ぶりの建物、ヴェルニー記念館である。

江戸末期、明治直前の頃、幕府役人の小栗上野介といわゆる「お雇い外人」であったヴェルニーが企画建設した横須賀製鉄所に設置されていた金属加工の装置治具類や、その後、同製鉄所で建設された戦艦「陸奥」の模型などの展示。
ひときわ目を惹くのが巨大な鍛造機、3トンのスチームハンマー、オランダ製、1865年製造、1866年輸入設置、その後130年間20世紀後半まで稼働とか(Wikipediaによれば2000年まで、とか)。
チョンマゲ時代に斯様な加工装置が存在していたとは、またそれがハイテクの現代にまで稼働し続けてきたとは、驚きの一言。
鍛造機の固定ボルト等をつぶさに見るに、ねじ切り旋盤なんぞがその頃すでに存在していたのであろうか・・・等々、機械装置そのものに先行する機械加工装置の歴史が如何なるものであったのか、いたく好奇心を刺激。

                   1865年製の蒸気式鍛造機を見る→
                                                                        
ヴェルニー記念館を出口を出てすぐの所に工事用の柵に囲まれた巨大な金属の筒が台座に鎮座。お台場の船の科学館から里帰りした戦艦「陸奥」の主砲の一つ、来春の一般公開に備えて化粧の最中とか、ペンキ職人が筒の上を行ったり来たり。この砲身の製作にも記念館に設置されていたスチームハンマーが使われたかもしれないと思いを馳せるに、感ひとしお。

 
 戦艦「陸奥」の主砲                 横須賀港の佇まい

視線を海に転じると目に入るのは停泊する多くの艦艇(軍艦)と対岸の建造物群(ドックなど)、マグロがゴロッとしているような風情の潜水艦(自衛隊か)、初めて目にする光景故、興味津々。通りがかりの人によれば、今は朝鮮半島での演習か何かで通常より艦艇が極端に少ないとか、、、、、、

横須賀製鉄所 → 横須賀造船所 → 横須賀海軍工廠と呼称は変遷してきたが、造船を主体とする海軍の機械工場。
海軍の艦艇建造以外に、観音埼灯台 生野銀山の採鉱機械・蒸気機関、富岡製糸工場の基本設計、機械類の製作等々、明治初期の日本の近代化に、様々な形で寄与したとのこと。
ただ、この軍都「横須賀」の主体であった横須賀製鉄所の空間的な所在は、湾の対岸、今や米軍の管轄下に置かれ、我々が足を踏み入れること不可。
横須賀造船所は明治9年初には初の軍艦建造に至っており、当時の横須賀観光客にお土産用として配布されていた明治14年発行の「横須賀一覧図」に当時の造船所の姿が描かれており、現在とほぼ同じ構図。

   
     明治14年発行の「横須賀壱覧圖」 クリックして拡大

ヴェルニー公園そのものは、「一覧図」の湾のこちら側、海岸線に沿って整備されており、季節が季節ならばバラが咲き乱れるどこにでも見られるような瀟洒な公園。
しかしインパクト少なく、同公園の価値は記念館と対岸にある施設群、か。

  
  ヴェルニー公園                   数は少ないが、秋バラが見られる


2.ドブ板通り
「横須賀」と来れば、「ヴェルニー公園」なんぞよりもドブ板通り!と来るのが世の常識。
しかし、その実態は、、となると余り知られていないのも事実。
この度の散策者の過半もその例に漏れないものの、興味津々、ヴェルニー公園から三笠公園の移動ルートにドブ板通りを選択することとした。
基地の町の歓楽街、時折新聞に載る事件報道や「ドブ板」の名称等々から想像されるのは、饐えた(すえた)空気の漂う場末の路地裏、往事の「赤線」のなれの果ての小料理屋の集まる筋。猥雑にして少々危ない臭いの漂う筋かと。
そして、夜な夜な華やかなネオンと嬌声脂粉に満ちる歓楽街の朝は、人気の無い道の路面に前夜の空騒ぎの挙げ句の果てだけが虚しく散乱 ある種の荒涼とした雰囲気が漂うのが常。
この淡い期待と想像を抱きながら横須賀熟知の散策者(荒木田さんかな?)に導かれて進み
「この通りがドブ板通りだよ」と告げられた瞬間、愕然!

 
   ドブ板通りを行く面々

確かに道路の真ん中には、かつて其処にドブがあったことを暗示するような敷石舗装が。
通り筋の入り口には”DOBUITA STREET”とお洒落にデザインされた鋳造標識が、また、歩道には「有名人の手形」があちこちに埋め込まれ、通りを小綺麗、小洒落たものにしようとする工夫試み、多々、感心。
道路は綺麗だし、道路の両側に並ぶ店もそれぞれに整然、そして、人の行き来もごく普通の町中の風情。面白くない!


       ドブ板通りの標識

期待外れにめげずに、あら探しの如くあちこちを探るに、あった!あった!
猥雑にして下世話な筋によくある客引き類の看板。何と「あぶな絵」のポスター。わいせつ物陳列罪?すれすれ?
これで歓楽街の資格あり!と 変な安堵をした次第。

          
          あぶな絵の看板(ライブハウスのポスターらしい) あぶな絵を拡大

要は、晴天の日の日中に訪れた俺たちが悪い、斯様なところはやはり、夜に来るべきだ!と。
妙な下心を捨て、素直に町筋を辿るに、英語表記の看板、「スカジャン」、「巨大バーガー」など米兵向け横須賀固有と思われる店多々、散見、時間があれば立ち寄ってもっと詳しく見たい!の思い。

         
           スカジャンの店

ドブ板通りの途中に「横須賀本町商店会館」と看板を掲げている町の案内所あり。観光パンフレット等々。
担当のおばちゃんと若干の立ち話をする。
横須賀海軍カレー、カレーパンの店、数十店、それぞれに味が異なる、、、、とのこと。
また、海自カレー、これもまた艦艇毎に味が異なりそれぞれの艦艇に対応した店がある、これは16店もあるとか。
海軍カレー、それぞれに味が異なるとあらば、チャンスがあれば何時かは試してみたいチャレンジ。
しかし、一日に何種類もカレーを食すること(高齢者とあらば、とくに)は不可。
結論は、頻繁に横須賀を訪ねろということか。


3.三笠公園
江戸末期から明治初期に掛けて日本の近代化に、産業技術の面から挑戦苦闘したのが横須賀製鉄所なら、世界列強との政治力学の面から挑戦苦闘したのが日露戦争であり、その勝利を決したのが戦艦三笠の活躍と、横須賀には文武両面からの日本の近代化遺産が存在していることになる。


  戦艦「三笠」の前で

東郷元帥の立像の背景には戦艦三笠、「海に浮かぶ」ではなく「コンクリートの土台に埋め込まれた」三笠である。
ちょっと高めの観覧料の払って三八散策メンバー8名三笠に乗り込む。

切符きりのおっさんに艦内のビデオ室に招じ入れられ(石塚幹事が申し入れをしたのか否か、とにかく若干の特別扱いの雰囲気)、日露戦争勃発にいたる当時の世界情勢、戦争の進捗状況、そして勝利・講和等々のビデオ紹介、中学高校時代の社会科歴史の授業をかすかに思い出させる話し、教養の高まる思いで熱心に見入り聞き入る。

     
      日露戦争とその時代の世界情勢を学ぶ

やがてビデオの終わる頃、新たなおっさん一人闖入。やおら、日露戦争当時のロシア艦隊と日本艦隊それぞれの動き、そして、その後の日本軍部の戦略戦術や考え方の推移の比較分析、勝利を経験した後の軍部の奢りとそれによる劣化が太平洋戦争の敗因と論を展開。
   
   
    熱弁をふるうボランティア・ガイド?

1923年のワシントン軍縮条約による廃艦となった三笠、解体は免れたが「コンクリート埋め込み」で船底が海底に固定され「動けぬ船」になった。また情けないことに三笠の甲板がビアガーデンにされた時期もあったと三笠の運命を嘆き、また、日露戦争の講和交渉における軍部政府の苦悩を余所にマスコミ(朝日新聞)の扇動による日比谷焼き討ち事件の発生等々、悲憤慷慨の語り口、そして耳をそばだて聞き入らざるを得ない説得力のある話し。
この突然の登場者、話す内容の自信振りや説得力から推すに、然るべきレベルの自衛隊出身者か(Wikipediaによれば、三笠は防衛省の所管ということもあり)。しばし、その熱弁に聴き入ってしまった。

その後、艦内見学。艦橋に記されている日本海海戦時の三笠艦橋での東郷元帥、秋山中佐の立ち位置に足を置いてみたり、大砲の命中率を質問したり(命中歩留は滅茶苦茶小さかったという)、新たな経験、新たな知見を楽しむ。
極めつけは、三笠の艦首は遙か皇居を臨んでいるとのこと、三笠に係わった面々、未だに、奮励努力するべき日本国近代化と進歩の夢を、坂の上の雲を、其処に臨んでいるかのように。

 
 三笠の艦首の前で                          三笠の主砲


4.打ち上げ
散策クローズ、楽しみの打ち上げ、三笠公園から道草せずに予定会場の横須賀中央駅近傍の「やきとり家すみれ at 横須賀モアーズ店」に直行。


 「やきとり家すみれ」での打ちあげ

時間的に、世の昼食時間帯に少々重なってしまったためか、将又、あまりに美味い店のためなのか、客で混雑、肴をつつきながら酒で散策を語りその疲労を癒やす段取り、少々無理。
大山どり(丹沢のオオヤマかと思いきや、鳥取のダイセンだそうだ)が売りの店だが、注文は昼のランチ定食メニューからとやむを得ず妥協、(酒の肴に唐揚げを一皿追加するのがやっとの雰囲気であった)鶏肉が美味かったのが救い。
報告者、長年、仕事も生活も神奈川県内にて過ごしてきたにもかかわらず、(横須賀という)すぐ近傍で生起してきた出来事や歴史に関わるチャンスがあまりなかったせいか、もろもろ新たにすることが出来た散策の一日であった。
なお、この日の散策はどなたかの歩数計によれば8,754歩だったとか。


5.余話
その1 散策「坂の上の雲コース」に登場した時代の英雄達、年齢は?
@ 横須賀製鉄所建設の立役者
「幕府役人」小栗上野介と「お雇い(フランス)外国人」ヴェルニーに係わる年表
1853年 ペリー来航の黒船騒ぎ
1858年 日米修好通商条約締結
1859年 小栗(32歳)批准書交換遣米使節団参加、米国の産業技術見学
1862年 小栗(35歳)幕府防衛担当責任者
1864年 小栗(37歳)フランスからの造船(軍艦)技術支援纏め上げ
1865年 小栗(38歳)ヴェルニー(28歳フランス人造船技術者)招聘
   &横須賀製鉄所建設計画スタート
1868年 小栗(41歳)新政府により斬首
1876年 ヴェルニー(39歳)明治政府に職務報国を提出 & 12年間に渡る所長任務を経て帰国
黒船騒ぎから〜20年、江戸の社会から近代社会に足を踏み入れる急激な時代の変化を中心的に担い推進したのは、30歳代の若者達。

A 一方、日露戦争の英雄達の年齢は
東郷元帥    57歳(日本海海戦 1905/5/27時点で)
秋山中佐    37歳(日本海海戦 1905/5/27時点で)
“軍神”広瀬中佐 35歳(旅順港閉塞作戦時点1904/3/27)
明治維新前夜の倒幕志士たちのみならず、日本(幕府?)の近代化を目指し推進した幕府役人・お雇い外国人も、そして明治に入ってから日本の国運を掛けた戦争を戦い抜いた主役も、すべからく30歳代の若者(東芝で言えば、主務から課長になるか否かの年代)、未だに失われた10年〜20年と嘆く面々には、「頑張れ!」のエールの一言か。

その2 公園の名称、たかが、、、されど、、、
ヴェルニー公園には、小栗、ヴェルニー二人の胸像と略歴紹介の碑がある。
これらが横須賀のみならず近代日本への彼らの貢献を顕彰記憶しようとするものであるならば、「ヴェルニー・小栗公園」とでも改称するべきではないか・・と、部外者の独り言。

 



                                           以上