東芝は三井物産経由で米国フォード社へオルタネーターダイオードを納入していた。
米国マスキー法案に対応するために自動車エンジンの有害排気ガス削減のエンジン制御装置(ECU)開発の募集が東芝にも来ていた。機械式では精度が出せないので電気式にする必要があった。
どの事業部が担当すれば良いか分からないので、暫く保留されていたようであるが、土光社長の目に留まり、全社から技術者を集め開発するように指示が出た。最終的には半導体が主となるので、(半ジ)半導体事業部に集まることになった。
1971年のことであった。
トランジスタ工場のどこだったかは忘れたが、がらんとした部屋に机だけが並んでいた。そこへ集まったが、びっくりした。
全社から技術者が集まることになっていたが、半導体からはK課長にI主任、その他は全員研究所のメンバーだった。
そこには計測制御の高橋之治さん、電子回路のMさん、計算機回路の小生と一緒に来たSさんしか居なかった。
K課長は計算機事業部でその名を馳せていたが、これからは半導体だと、1年間休職して米国へ留学していた。その後半導体事業部へ移ったが、課長1人だけで孤立していたので打って付けの人だった。
対象は、V8エンジンでMax. 6,000rpm、環境温度は-55~125℃、点火タイミングは速度により上死点から6~60度の進角、気温と気圧により最適な空燃比にするが、燃料噴射はインテイクマニホルド(当初はシリンダ毎ではなかった)、燃焼温度を下げるために排気ガス再循環を行う。
集まった全員がガソリンエンジンについての知識は全くなかった。色々なパラメータはフォードの方で用意するが、その内容は開示してくれない。開示してくれたとしても理解できなかったであろう。素人集団だが何とかお茶を濁せば我々はお役目御免になると呑気に構えていた。
それでも皆で議論していくと、時間的に最も厳しいのは点火進角の予測となった。
エンジンの回転速度の変化からすれば、要求制度を出すためには2次元予測が必要になると高橋さんが言い出した。
これでは掛算が必要になる。オペアンプを使えば簡単であるが、要求温度範囲での温度補償は不可能である。そうなるとディジタルにするしかない。
8ビットの計算では精度不足なので9ビットのプロセッサを提案した。こんなものが出来るかどうか分からないが、まあいいことにしよう。
応援部隊は提案書作成まで2週間との約束であり、高橋さん達はその通り帰っていったが、小生は2か月間付き合わされた。
我々は実際に物を作る訳ではないので、実現可能性などは余り考えずに提案した。ところが、こんなことが出来るのならやってみろと提案が採用されてしまった。
再び集められたが人手がない。計算機事業部から1人来たが、それだけだった。
丁度新入社員の配属時期だったので、特別に数名の新学卒が配属された。
社長プロジェクトならこんなこともあるのかと思ったが、新人ばかりで、途方に暮れた。
新人への半導体教育はI主任に任せ、K課長は高橋さん小生をしごき始めた。
午後10時までは仕事しろ、その後勉強会だ。MITの講義録を毎日数十頁読む、ダブルスペースだが結構な量になる。終電に間に合うように終わらせる。終電に間に合わなくてタクシーで帰ったこともあるが、いつだったかやむなく川崎の日航ホテルに泊まった。後で、K課長は上司からきつく絞られたようだった。
その後紆余曲折はあったが、本格的に開発することになった。こんなところで良いかなと提案すると、それが出来るならと更にと高度な要求を出された。
K課長のやり方は、織田信長を彷彿とさせるような猛烈さであった。
余談になるが、K課長はO部長とよく喧嘩をしていた。
ある時、高橋さんと小生がO部長に呼び出され、K課長が居なくても開発できるかと聞かれたりした。
トランジスタ工場での周りの評判は、外様ばかりが出来そうもない物を作ろうとしている。本来なら蹴とばすところだが、社長プロジェクトなので、蹴とばす訳にもいかないので、跨いで通れと言われていたようだ。
1972年5月、開発を促進するために高橋さんはデトロイトのディアボーンに駐在を命じられ、ミシガン大学にあるフォードの実験室と連絡を取ることになった。
小生は日本で開発を担当する。デトロイトと日本は昼夜がほぼ逆転している。
デトロイトで夕方に日本へテレックスを打つと、日本では午前に到着する。
その検討結果をその夜日本からデトロイトへテレックスを打つとデトロイトには朝着く。
夕方にはまたテレックスが来る。全く休んでいる時間はない。
e-mailとは言わないが、せめてもFax. があれば良かったが、当時はテレックスしかない。紙テープにアルファベットで打つのも読むのも三井物産頼みであった。
高橋さんが日本に帰ってきた後はテレックスでのやり取りは短いが、それが段々と長くなる。図面が送れないので言葉だけになると、痒いところに手が届かない。
ブレッドボードを作ってデトロイトへ持ち込んだ。データを入れたり、プログラムを変更するにはテレタイプしかない。テレタイプを接続するインタフェイスを頼んだ。翌日には出来上がることになっていたが、今日はテクニシャンが休んでいるので明日になると言う。こんなことでは一日棒に振る。仕事にならない。
そこで大学の試作室へ高橋さんと一緒に潜り込んでみた。トランジスタや抵抗などと共に半田ごてもあった。誰もいない。空中配線でインタフェースを内緒で組み、これである程度仕事ができた。翌日は何食わぬ顔で正式なインタフェイスを受け取った。
プロセッサの設計はほぼ小生一人でやらなければならないが、大きな図面は描くことは出来ない。そこで部分的に図面を作成し、大きなテーブルの4辺に新人を並べて同じ信号名を繋ぐようにと命令し、大きな図面にして貰った。
詳しい説明もしなかったので、今ならとんでもないパワハラだったかも知れない。
しかし、みんな優秀で見事に図面は完成した。
論理図面が出来上がると、次はPMOSでのパターン設計になる。
我々にはパターン設計が出来る人はいない。そこでK課長は、パターン設計をしているこれぞという人に狙いをつけ、
「お前課長と喧嘩しろ、仕事が無くなると丁度この仕事があるぞ」
と言って引き込んだ。小生は訳も分からず図面を一緒に塗る手伝いもした。
パターン設計をすると、6ミクロンルールで6mm角になる。こんなものは出来るわけがない。
未だ検討段階の5ミクロンルールで5mm角近くになれば作れるかも知れない。
しかし、何しろ社長プロジェクト、担当のペレット製造課は何とか作ろうとしてくれた。
1973年4月にはフォードへ納め、あわよくば6月前に日本初の本格的なプロセッサを発表したい。
社長発表で株価にも影響し、新入社員募集にも好影響があると言う。とんでもないプレッシャであったが、製造も頑張ってくれ、幸運にも何とか動くものが取れた。
早速、フォードへ納めることになった。デトロイトへ行く途中のシアトルで入国手続きをすると、これは個人の持ち物ではないので、ボンド?にしなければならないと戻してくれない。
配線コードをスーツケースに入れていたら、それも一緒に没収された。デトロイトへ着くと、小さな紙袋しか持っていないので、高橋さんはそんなに小さくなったのかと驚いた。
いや、全部没収されたと言ったら、すぐに三井物産へ連絡してくれた。翌朝三井物産の人に連れられ、2軒の立派な民家(?)を回った。何をしているのか全く分からなかったが、空港へ行くと荷物が置いてあった。午後無事にフォードへ持って行けた。さすがに高橋さんと三井物産、その早業には感服した。
プロセッサブレッドボードをフォードの研究室へ持ち込んで、高橋さんと一緒に1週間ほど調整し、小生は帰国した。制御プログラムはフォード側で作成するので、その内容は分からない。制御プログラムはEPROMに入っているので、そのバイナリーコードを盗み見し一部は解読したが、全容を把握するまでには至らなかった。
その後、高橋さんとフォードのメンバーは、プロセッサブレッドボードにADコンバータや各種入出力回路を組み込んだI/Oボックスを接続し、自動車のトランクルームに積み込んで色々テストしていた。ある時、社長?のアイアコッカが来て、トランクルームに大きなボックスやバッテリーがあるのを見て、俺のゴルフバッグはどこへ入れるのだと冗談を言っていたそうである。
プロセッサLSIが出来たので、ADコンバータを初めとする各種入出力回路にサージアブソーバ付けてアルミ弁当箱様のECUを試作した。このECUをエンジンルームに入れるのは厳しいので、コンパートメントルームに置いてくれ申し入れたが相手にされなかった。
フォードの研究室では測定装置に乗った実験用の自動車に組み込みテストが始まった。エンジンが唸りを上げているのに1本の点火プラグのケーブルを抜いてECUの入出力端子をはじめそこら中に当てる。スパーク火花が飛び散る。こちらは心臓が止まりそうになった。全く酷いことをするものだが、何とか切り抜けた。高橋さんは意外に平気なようだった。もう自動車屋になっていたのかも知れない。排気ガスは大きな風船に取り込み、後で解析するそうだ。
米国の錚々たる企業を差し置いて東芝が採用されるとは奇跡的であるが、それは高橋さんのディアボーンでの活躍と時間厳守であったように思う。当時は国際便の予約は早くから取らなければならず、急な変更は実質的に出来なかったので、必然的に時間厳守となった。一番乗りなので審査も早くしてもらえた。これらが重なって開発が早く進捗したためでもあろう。米国企業は、飛行機でも車でもいつでも持っていけたが、遅れることが多かった。
ECUを搭載した車に乗せてもらったことがあった。O部長が助手席に乗り、小生は後ろの席であった。ECUを働かせた場合と切った時の違いを見せてくれたが、何れも猛烈な加速で、前席の背にしがみ付いて計器を見ていたので、違いが分からなかった。後で営業の人だったか、技術アタシェの人だったかに、大袈裟でも「素晴らしい加速だった」とか言わなければ駄目だと言われた。小生の社交性の無さを反省したが、それは未だに変わっていない。
このECUは先ずリンカーンヴェルサイユに搭載するとの話になった。リンカーンはトランクルームの外観がタイヤの形をしていて、ギャング映画で見覚えがあった。ヴェルサイユは小型のようで年産2~3万台とのことであった。この段階では未だ全体としては試作レベルである。小生は埒外であったが、厳しい価格交渉が行われたらしい。
元気なK事業部次長がこのプロジェクトに乗り気になって、堀川工場に製造ラインを作ってECU弁当箱を半導体事業部で作ると言い出された。製造は順調に進捗し、全部で10万台位納入した。プロジェクト全体としても赤字にはならなかったと聞いた。小生はECU製造にはタッチしなかったので、詳しい方がいれば伺いたい。
初代ECUはフォードへの納入を勝ち取ったが、次世代のECU開発に関してフォードから10ビットのプロセッサの打診がきた。精度とビット数を勘案し小さいLSIにして安くする狙いだった。モトローラ社は即座にそれに乗ったが、東芝は設計済みの12ビットでいけと上司から発破を掛けられた。高橋さんはフォードのフォローとトヨタへのアプローチを担っていた。小生は手薄になったメンバーで臨んだがモトローラ社に負けた。最初からECU専用のプロセッサと割り切るべきだった。モトローラ設計のECUを製造することは許されていたと思うが、それがどうなったのかは分からない。
丁度その頃だったように思うが、東芝機械が多軸制御可能な工作機械をソ連へ輸出したことが問題になり、東芝も責任を問われた。工作機械だけで潜水艦の静寂性を上げられるとは思えないが、米国の安全保障問題ともなれば大事とになる。これでフォードとの取引が縮小したとすれば誠に残念至極で遺憾である。
その後、小生は研究所へ戻る予定であったが、突然半導体事業部へ異動となった。出来上がった12ビットプロセッサを一般に売る応用技術になり、苦労が始まった。マルFプロジェクトに反対だったT部長が上司であった。彼は本陣指揮型の部長だと言われていた。とすると、我々は突撃隊か斥候だったのか?
T部長の判断には8割方賛同できたが、2割程は違っていた。しかし、その違いは成程と思わせるものがあった。その指揮と判断力には感心し、憧れを以て尊敬できた。T部長に連れられて1年で50社位訪問した。1年ほど経つと不思議なことに、訪問した会社へ入った途端に一流の要求をするところかどうかがほぼ分かるようになった。東芝の他事業部は残念ながら一流ではなかった。しかし、この感覚はすぐに消えてしまった。これまた残念である。