川崎常元さん                                 

お別れの言葉(弔電)

一緒に仕事をし、ときには杯を挙げ、そして感動を共にした仲間、川崎常元さん。素晴らしい人生をあなたと分かち合えた喜びは、何物にも替えがたく感謝しております。     どうぞ安らかにお眠り下さい。

                   三八会 一同

川崎常元君を偲ぶ     石塚洋

「よお〜っ、 皆元気? 何も手伝い出来なくてごめん!」と三八会作品展会場に入って来る。 
この威勢の良い声をもう二度と聞けないのかと思うと寂しさが一層募って来る。
彼は仲間の皆から慕われ、豪快で竹を割ったような性格だった。
いい奴だった。

平成28年5月18日、早朝7:58、川崎君が亡くなったと、ご長男の菊雄様から知らせがあった。
ちょうど「三八会歩く会:生田緑地公園散策」から帰宅した直後だった。
誠に残念無念! 心からご冥福をお祈り申し上げます。
彼との想いでは数え切れない程あるが、何と言っても懐かしく思い浮かぶのは酒を酌み交わしながらの
カメラ談義だった。
「第1回三八会作品展」は平成14年の例会で決議され、翌年7月末に開催された。
その2ケ月前の5月、三八会有志7名で「金沢研修旅行」を行った。ガイドは勿論川崎君。
この時「石塚よ、7月の作品展には出すものないよ」とぽつりと言った。
「俺も無いけど家内のものや孫の作品を掻き集めるよ。俺は写真をと思っているよ。あんたも金沢の写真撮って出したらいいよ」と答えた。「石塚はカメラどんなの持ってんの?」「ニコンのD80」、「そんなの金沢に売っているかな」と言ってそのときは終わった。
数日後「D80、買ったよ」と彼から電話があった。

第1回作品展には残念ながら本人は都合で来なかったが、「自宅の庭」「飴や老舗」の写真を出展してくれた。
「あんたの写真、なかなか好評だったよ」
とメールでほめ言葉を送ったら、その気になったのか早速金沢の「写真教室」に入門した。
写真の腕をメキメキ上げていった。
最終回となった作品展には、機種もニコン最高級一眼レフ「D800」を提げて颯爽と現れた。
「石塚、D800を手に入れたよ、使ってみなよ」と手渡された。 驚いた。
「ピント位置」「ホワイトバランス」「露出補正」「逆光効果」「絞りボケ」などなど彼とのカメラ談義は止まらない。何時の間にか彼から教わる事も多くなった。相当勉強しているなと実感した。
平成24年、作品展が終了した後も加賀藩周辺の伝統行事、風景写真をメールで送ってくれ、我々の目を楽しませてくれた。彼の写真の腕前に俺はシャッポを脱がざるを得なかった。
彼が撮った「兼六園の雪つり」「金沢市の出初式」の写真は圧巻だった。

作品展のときは必ず自分の作品の前でファミリーを集めて記念写真を撮るのを常としていた。

川崎君、天国でもあちこち回って、いい写真をたくさん撮って下さい。
天国で作品展、またやろう! ありがとう、川崎君。


 川崎さんの作品 「金沢市の出初め式」(2005年三八会作品展より)


 2006年作品展会場で


 2010年作品展にて


川崎さんの思い出     浪本敬二

川崎さんとは、技術系学卒の入社試験(筆記試験)の問題作成と採点を担当したときに、親しく話をさせて頂きました。電磁気、回路、力学、数学の4問をそれぞれ作成し、難しい順に並べ、適宜選び出して出題するようでした。英語は別にあったようです。
社長などの役員推薦者(縁故者)がいる時は難しい問題ばかりを選ぶそうです。落とす時の言い訳にするようでした。
川崎さんは入社希望者を試験会場へ案内する時の態度とちょっとした会話で、そのグループの筆記試験の点数範囲は殆ど分かると言っていました。人事勤労のベテランともなれば、こうなのかと驚きました。
ただ、面接試験では、1割は予想外になるとも言っていました。
10年後の考課は入社時の筆記試験の点数とは殆ど相関がないとのこと。ほっとするような、嬉しい気分でした。もっとも、我々の時は筆記試験はなかったように思います。人の採用は難しいものですね。
推薦もなく入社したいと直接訪ねて来る学生もおり、断ってもずっと立ち尽くしている者もいたそうで、お昼過ぎには可愛そうなので、止む無く昼食に誘ったとか言っていました。
当時の会社の隆盛と、川崎さんのお人柄が偲ばれます。

トランジスタ工場で従業員として潜り込んだ左翼系過激派の連中が活動していた時には、川崎さんは体を張って対応していた姿を遠くで見ました。かって柔道の猛者でならした彼はその面でも適任だったかも知れませんね。

三八会では、会長、幹事に次ぐ世話役で色々面倒を見て頂きました。小生はふらふらついて行くだけでした。
フットワークよく、方々へ出かけられ、四季折々の美しい写真を送ってくれました。そのことで金沢の伝統行事も知ることができました。いちいち返信すべきを怠り、失礼していました。
金沢のお宅は何度か訪問させていただき、倉のある大きな屋敷で部屋も壁も襖も庭も素晴らしいところでしたね。

川崎さんともう会えないのは、とても寂しいです。


 2005年6月 川崎邸「群青の間」にて




川崎さんを偲んで    小野智史

川崎さんの豪放磊落な振る舞いと会話に触れることが出来ないと思うと実に寂しい限りです。
想い出されるのは、トランジスタ工場時代の川崎さんが勤労課、私が製造課の時の想い出です。
製造課は人数が多く、いろいろな人々が従業員としている中、多くの局面で川崎さんと相談し実に多くのことを教わりました。
病気や女子寮など日常のトラブル対応・・時には警察などへの対応など、多くのKnow-Howを教わりました。

とくに成田国際空港建設時に起こった反対運動(成田闘争)では、従業員の中に闘士が入り込んできて、その対応での数々の想い出があります。

昭和50年頃、左翼系過激派の連中が臨時社員募集を利用して会社に潜り込んできました。
数ヶ月すると公然化して社員食堂のテーブルの上に立って、アジ演説を打つようになりました。

私の職場に配属されたのは過激派のリーダー格でした。
「何でこんな奴らを入れたんだ」と各職場から採用担当の川崎さんに非難が出ました。
しかし、彼は明るく余裕のある態度で、冗談半分に
「小野君のところなら職場管理がしっかりしているから、大丈夫だと思って闘士を配属したよ・・」と言われては、いろいろな対策に頑張らざるを得ませんでした。
実に人を使うのが上手い人でした。

その後、彼女(この闘士)は成田闘争の活動で逮捕され、拘置所に収監されました。
給料日が近づいたある日に彼から言われました。
「罪が確定していない以上、まだ彼女は従業員だ。労働基準法の定めで、直接払いの原則が適用される。
従って直属の上司が手渡ししなければならない」との論理で説得され、拘置所へ行く羽目に、、、、
生まれて初めて東京は葛飾区にある拘置所の門をくぐり、彼女に給料を手渡しました。

成田空港から海外へ行く機会も多くなりましたが、滑走路を見る度に、このことを今も懐かしく想い出します。
亡くなられた今、あの明るい笑顔とともに深く心残る懐かしい想い出として決して忘れません。




煮ても焼いても食えない問題        佐藤幹郎


40年以上前、現在はもうなくなってしまった堀川町工場にLSIの開発試作ラインが作られ、私が約100名のスタッフを引き連れトランジスタ工場から移ることになった。
ところが、異動するメンバーが決定されたとたんに問題が起きた。何人かのひとが、それも現場のリーダー格の連中が転勤を拒否したのである。
理由は会社から内定を受けていた、住宅ローンの融資を取り消されたというのである。
当時は日本も高度成長期でマイホームブーム。しかし、民間のローンは金利がとても高く(たしか9%ぐらい)手が出なかった。
そんなとき、会社が低利で従業員に融資してくれるいわゆる社内住宅ローンの制度ができた。

融資の希望者がとても多いため、事業場毎に予算が決められ、その予算内で融資希望者をさばいていた。
転勤者が出て行くトランジスタ工場は予算が浮き、入ってくる堀川町工場はもう一杯だから、来年度に申請し直してくれということになり、当事者はすでに手当てした土地をどうしてくれるんだと訴える、なかには労働組合に駆け込む者も出て騒然となった。
私の上司からは、そんなことより、巨額を投じた試作ラインを1日も早く立ち上げろと矢の催促である。

板挟みになって何も出来ない私は同期のよしみで川崎君のところに駆け込んだ。
「ちょっと難しいかもしれんなぁ」と言いながらも何とか引き受けてくれた。
一週間ほど後に、転勤者は会社のローンを受けたまま堀川町工場に移れるようになり、無事一件落着した。
川崎君が二つの工場と本社とを駆け回って問題を解決してくれたのだ。
後で、礼を言いに行くと、彼はこういった
「煮ても焼いても食えない問題をどうするかが、我々の仕事なんだよ」

それから定年までの長い間、私の仕事の上でも色々な困難なことが起こったが、その時はいつも彼が言った
上の言葉を思い出して事に当たった。
川崎君、本当にありがとう。


在りし日の姿 三八会例会でのスピーチ:禁煙とダイエット(2006年12月18日収録)


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