親父のスケッチブック
佐藤 幹郎
親父は変わり者だった。
旧帝大を出て水産会社のエリートコースを歩んでいたが、ある日役員昇進を告げられるとさっさと
会社を辞めてしまった。
東京へ行くのがいやだ。おれは工場で漁師を相手に仕事をしている方が楽しいからというのがその
理由だったそうな。
自分で小さな漁船を買い、人を雇って漁業を始めた。船が出漁すると家に戻り、終日油絵を描いて過ごす
という毎日だった。
当時あまり物のない時代に、札幌からいろいろな画材を取り寄せ、相当の入れ込みようであった。
学校から帰って玄関に入ると仄かにテレピンの臭いがして、今日も親父が絵を描いているなというのが
すぐ分かった。
そんな親父も一線を退き、お袋が先立ってからは弟達の家に厄介になっていたが、嫁と合わないという
のを理由にあちこちを転々とし、遂に行くところがなくなってしまった。
やむなく長男の私が引き取り、果ては九州大分に転勤で同伴することになった。
「友達や仲間からますます遠くなる」と嫌がる親父を無理やり説得したのを思い出す。
大分松岡の社宅に落ち着いてから、やることのない父は昔の絵心を思い出したらしく、スケッチブックを
手にぶらりと近所に出かけるのを日課にするようになった。
引っ越し荷物を整理していたら、その当時の親父のスケッチブックが多数出てきた。
鉛筆で描いたスケッチに、気が向けば水彩で色をつけるといった感じで、絵を描かずその日出会った
風景や人に関する日記風の文章だけが書いてあるページもある。

親父のスケッチブックより「倉と段々畑」 同 「東芝大分工場」
松岡にある小さな梅林を描いた絵の裏にはこんなことが書いてあった。
梅の木の下が「みょうが畑」や「にら畑」になっている。
近くにいたお百姓の爺さんに尋ねたら、「梅の木が繁ると日陰になり、みょうがも、にらもソクソクと
した柔らかい出来になる」、「あんた何にも知らん人やなー」と言いながらも優しく教えてくれた。
八十歳目前になると親父もだんだん弱ってきて、手が思うように動かないとこぼすようになった。
今スケッチブックを改めて見てみると、結構「達者」だった親父の絵が時間を追う毎に稚拙になり
小学生の絵のようになってゆくのが何とももの悲しい。
五年間の大分工場の任期を終えて帰る前夜、家族で別府の鉄輪温泉に泊まった。
弱った親父も何とか温泉に入れるよう、離れの庭が露天風呂になっている旅館を予約した。
でも親父にはそこまで行く体力がもう残っていなかった。
多摩川工場へ戻って一週間目、勤務中に家内から電話があった。
親父が逝った。