小野 智史(現地報告と写真)
佐藤 幹郎
台湾出身のアジア不世出の大歌手テレサ・テンが42歳の若さで保養先タイのチェンマイで亡くなって早くも今年は十三回忌となる。
テレサ・テンは両親の生まれた国、中国への憧憬や、彼女の熱狂的なファンが中国大陸に数多く存在することから、大陸でコンサートをひらくことを夢見ていた。
この夢を打ち砕いたのが、1989年の天安門事件である。
これを契機に彼女は仕事場を香港からパリに移した。
その理由の一つに、フランス政府がフランス革命二百周年を記念して、パスポートや身分証明書を持たない政治的亡命者を積極的に受け入れ、この年に起こった天安門事件で中国を追われた多くの活動家たちがパリに流れ込んだことが挙げられるという。
実際、彼女はこれらの政治活動家と接触し、中国政府の自由への抑圧に対する抗議と中国民衆への励ましを込めたコンサートをパリで開くことを計画していたらしい。
寒さが苦手のテレサは冬の間はパリを離れ、タイに滞在した。
最初は、プーケットだったが、モンスーンの影響でよく雨の降ることが気になっていた。
たまたまガイドブックでチェンマイのことを知り、94年8月に初めて訪れたチェンマイの街や緑溢れる
穏やかな気候がすっかり気に入り、ここを保養地に定めた。
チェンマイにおけるテレサ・テンの足跡は滞在先のresidenceや近くのhotelの関係者に聞くことから始めましたがテレサ・テン(Teresa
Teng)と言っても通じず、インターネットで調べ中国語でのDeng Li Junを北京読みのデン・リー・チュン、広東読みのダン・ライ・グアンで再度聞いても通じず、やっと「ダン・リー・ジィン」で通じることが判りました。
最初に判明したのが、亡くなったのが Chiangmai Ram Hospitalであることでした。
早速、この病院に出掛けて聞いたところ親切に応対してくれました。
Chiangmai Ram Hospital は12階建てでベット数350で1993年に設立されたチェンマイでも最大級の病院です。
日本語の少し判る ThitipornSubmaさんが調べてくれた結果、1995年5月8日救急車で運び込まれ心臓マッサージなどの処置をしたが、死亡が確認されたとのこと。
数年前からの喘息の発作により倒れ救急車で運び込まれたとのこと。対応した医師は男性の外科医のDr.Sumeth
Handagoon であることまで判明しました。
この病院は日本語の対応も日本人医師1名と専門スタッフを2名用意しており、日本人の滞在者にとっても安心して診察・治療が受けられる病院とのことであった。
この病院でテレサ・テンが滞在していたホテルが判明したので、翌日早速そのホテルに調べに出かけた。
テレサが滞在していたホテルはThe Imperial Mae Ping Hotel(インペリアルメーピンホテル)で、ここでも事情を話すと親切に対応してくれた。
このホテルは15階建、371部屋をもつチェンマイでも最大級のHotelで、有名なナイトバザールの近くにあります。
テレサが宿泊していた部屋は、ホテルで最高のローヤルグランドスイートの部屋で15階の専用のフロアにありました。
スタッフのBillyimさんの案内で、何と泊まっていた部屋まで案内してくれた。泊まっていた部屋は1502号室で、あいにく当日宿泊者がいたため部屋の中には入れなかったが、専用フロアだけあって、部屋の写真が用意してあり、それを写真で撮ることができた。
素晴らしいの一語で、一泊25,000バーツ(約10万円)に充分値する内容であった。
亡くなる前の1994年から2年間は度々宿泊していたとのことで、1回の滞在は1ヵ月間が最大で1週間のこともあったという。
親切にもテレサが1995年5月8日発作で倒れた場所まで案内してくれた。倒れたのは部屋の中ではなく、エレベーターの前の廊下であった。
1989年にパリに移り住み、フランス人のステファン・ピエールという男性と暮らし、彼としばしば訪れたチェンマイ。
彼女の発作の原因が彼の麻薬常習(体温が上がるので部屋を締切りエアコンをつけ放し、煙が充満)であると聞くにつけ、多くの人に愛された歌姫が呼吸困難で亡くなった現場を見るとき、切なさと無念さが込み上げてきて暗然とした気持ちになってしまいました。
テレサが運び込まれたラム病院
生前に二日間だけ入院したこともある
インペリアルメーピンホテルとローヤルスイート(リビング、ベッドルーム)
ローヤルスイートのあるフロアデスク
テレサが発作を起こし、助けを求めたエレベータ前の廊下
テレサはその絶大な人気故に、それを利用しようとした大陸政府と台湾政府との政治的な狭間に落ち込んでしまったことは否定できない。
チェンマイが彼女にとって単なる保養地ではなかったという指摘もされてはいる。
1949年の中国革命で本国を追われた国民党の一部はミヤンマーに逃れたが結果として難民として受け入れを拒否され、タイに逃れた。
タイ北部には国民党の元兵士やその家族が住む町や村がいまでも存在しており、テレサはチェンマイ滞在中にこれら「国民党の残留村」を訪問し、貧しい子供達の学校の修復などの費用を負担している。
このようなこともあってか、テレサの死後、「彼女は台湾の軍のスパイであり、そのために謀殺された」という記事が台湾で報道された。
また、彼女がパリで知り合った14歳も年下のフランス人の愛人ステファンが麻薬常習者で、テレサの死因も
大麻吸引にあるとする説も流された。いずれにせよ、家族や友人から「ひも」ではないかと好意的に見られなかったステファンとの交際がテレサを仕事から遠ざけ、経済的に破綻に近い状態まで追い込んだことは残念でならない。
1994年の大晦日、テレサはチェンマイに来ていた。
メーピンホテルでは300名の宿泊客が新年を迎えるカウントダウンの催しではしゃいでいた。
新年を迎えたあと、彼女は求めに応じて歌った。
日本での大ヒット曲「時の流れに身を任せ」を歌おうとしたが、楽団がこの曲を知らなかった。
彼女が選んだのは「梅花」だった。
中国が国連加盟を果たし、国際的に孤立してしまった台湾の人々を国花の梅の花に託して励ますために作られた歌だった。
梅の花 梅の花
それはこの世に満ち溢れ
寒ければ寒いほど花開く、、、
これが人前で歌ったテレサ・テンの最後の歌となった。
メーピンホテルの前庭を通って道路に出ると、麺を売る小さな食堂があり、テレサは毎日のように顔を出していたという。
チェンマイを訪ねることがあったら是非この店に行って、テレサが好きだったという鶏肉入りの麺を食べてみたいと思う。
[参考文献] 有田 芳生 「私の家は山の向こう テレサ・テン十年目の真実」2005年、文芸春秋 刊