佐藤 幹郎
探し物ををしていろんな段ボール箱を開いていたら、黄ばんでぼろぼろになった文集が出てきた。
1952年3月とある。小学校の卒業文集だ。
文字が消えかかっている謄写版刷りのページをめくっていると貧しくとも楽しかった思い出が
甦ってきた。
級友の書いた文章を紹介しながら、気が付いたことを書いてみた。
大地震
三月四日の十時すぎに大きな地震があった。
そのうちすぐやむと思っていたらだんだんはげしくなった。
ストーブにかかっていたじょうはつ皿の水がじゃぶんじゃぶんとこぼれ
女の子はキャーとひめいを上げました。
机の下にもぐり、しがみついていたらだんだんしずかになりました。
とても長くかんじました。つなみが来るというので、学校が早退させてくれました。
妹をつれて急いで家に帰りました。
とちゅう高台から見ると釧路川が川上のほうにぎゃくに流れていました。
下町のひとたちがおおぜいひなんして走って坂を上がってくるのが見えました。
私も沖合にあった流氷が津波とともに釧路港になだれ込み多くの漁船が沈没したのを目撃した。
記録を調べると、マグニチュード8.2、多くの家屋倒壊と死者・行方不明者30名とある。
家に帰ると、前日のひな祭りで飾り付けてあったひな壇が目茶目茶に崩れ、母が散乱した雛人形を黙々と
拾い集めていた姿を思い出す。
修学旅行
喜びにみちた僕たち80名をのせた汽車は六時十五分駅を出ました。
三時間ぐらい走ってようやく弟子屈駅につきました。
しかし汽車にははじめて乗ったのであまり長くは感じませんでした。
阿寒へは横断道路をとおってバスで行きました。
中には車にはじめて乗って酔ったひとがかなりいました。
小学生六年になって初めて汽車や車に乗った子が多くいたなど今では考えられないことだ。
教室がすし詰め状態だったことは記憶にあるが、1クラスで80名もいたとは!
横になってカニ歩きをしないと通れない通路を通って自分の席に行くのが面倒くさく、机の上を走って
先生に殴られたことを思い出す。
ビンタを食らって教室の外に立たされるなど体罰も日常茶飯事だった。
先生の思い出
僕はあまり強いほうでないので、昼休みなどいつもいじめられて校庭のすみにうずくまって
いました。僕が泣いているといつも先生は赤いハンカチで僕の目をふいてくれました。
やさしいやさしい柿木先生。ぼくはいつまでも一生忘れません。
そしていつもいじめたやつをこらしめてくれたA君。
ふだんはらんぼうだったけど本当はやさしかったのだと思う。
いじめ問題はこの頃も存在した。
だが、ガキ大将がいてちゃんと事後処理をやっていたようだ。その点がいまと大きく違うところか。
六年間の思い出
一年生から六年生までに九人も担任の先生がかわった。
平均すると一年に一回以上もかわっているのだ。
これから中学では三年間良い先生にずっとついてもらいたいものです。
終戦直後教師が極度に不足した。代用教員と称する無資格の先生が沢山動員されたらしい。
最後の九人目のM先生は大学受験を失敗し、浪人中の兄さんみたいなひとだったがとても良い先生
だった。
思い出すのはH先生だ。軍人志望で大学に入ったが、終戦を迎え失意のうちに休学、故郷へ帰り
ぶらぶらしていたひとだ。学校へはいつも角帽をかぶって来た。
体育の時間は自ら赤ふんどし一つで生徒の先頭を走った。
授業も変わっていた。クラスを二つに分け、出来る子のグループには中学の英語と数学を教えた。
おかげで中学へ行ってからはほとんど勉強しなくて済んだので、大いに遊びまくった。
小学校五年のとき、H先生は突然辞めた。新しく創設された自衛隊の前身である警察予備隊に入隊した
と母から聞いた。
角帽をかぶったH先生と川湯温泉で
級友と
謝恩会
六年青組の謝恩会は一月五日に行われた。
たくさん集まった父兄に手を真っ黒にしてとうしゃばんですったプログラムを渡した。
級長の菅野君の開会の言葉にはじまり、合唱や踊りや劇などをした。
終わったあと、お母さんたちの心づくしのちらし寿司がとてもおいしかった。
子供は親と先生に、父兄は先生に感謝する楽しい集いが年2回ぐらいあった記憶がある。
いまのPTAの会合は学校や先生を糾弾するものが多いとか。
金があっても給食費を払わない身勝手な親や教師の不祥事を聞くにつけ、人間的な質も低下しているのだろうか。
大きくなったら
学校の帰り坂を下りてゆくとお母さんが病気で歩けない兄さんを背負って市立病院へゆくのに顔を真っ赤にして坂をのぼってきました。
わたしはお母さんがかわいそうでした。早く大きくなってお母さんを楽にしてあげるつもりです。
大きくなったら何になりたい。医者になりたい、プロ野球の選手になりたい。
学校の文集の定番テーマであるが、この文集を読むと、終わりは必ず「親を楽にしたい」との言葉で締めくくられている。親が苦労している姿をあまり見られない(見る機会がない)今の子供は幸福でもあり、ある意味大変不幸でもあるように思う。
弁当
今日は弁当をもってこれなかった。
弁当忘れちゃったとうそをいったらとなりのA君が半分食べろといってくれた。
きみの友情はいつまでもわすれない。
入学当初は学校給食などなかった。三年生の時から進駐軍の放出した脱脂粉乳を飲まされたが、六年生の後半からやっと今のスタイルの給食が始まった記憶がある。
六年間ほとんど弁当を持って通学した。
北海道は当時米が獲れないうえに配給で、白い飯は正月しか食べられなかった。
だから弁当はほとんどジャガイモかカボチャだった。貧しくてそんな弁当でさえもってこられない子供が多くいた。
外で体育の時間が終わって教室に戻ると弁当が盗まれてなくなっていたこともしばしば起こった。なかには食べられてしまった弁当を開けると空っぽの弁当箱やおかず入れがぴかぴかに洗ってあることもあったっけ。
あとがき
この文集発行の日付は3月15日とある。十勝沖地震の記事があるから、わずか10日ぐらいで作られたことになる。比較的字のうまい子が集められ、毎日放課後遅くなるまでガリ版を切った記憶がある。後ろの方が少し欠落しているが、総ページ数が60数ページある。
これを80人分刷るのも大変だったと思う。
いまならパソコンやプリンタもあるけど。親戚の子に訊いてみたら、印刷所で作った豪華な卒業文集を持ってきて見せてくれた。