善ちゃんとの出会いは遠く東芝入社時にさかのぼる。入社教育・実習を終わっていよいよ配属となり、東芝姫路工場へ山田・児玉・山本・大川の4名が配属となり、太子町鵤にあった若芝寮の4人部屋にまとまって入寮し社会人生活のスタートを切った。
配属された人数が同部屋に4人であったのが良かったのか悪かったのか、よく麻雀をした。 4人の中では善ちゃんが最も品行方正であったが、仲間に引きずられて麻雀に付き合わされ、徹夜麻雀で出勤時間となりタクシーで工場へ駆けつけたことも何回かあったと記憶。
善ちゃんの実家は飾磨にあり、すべての面で4人の中で一番優雅な生活であった。
何回か実家にお邪魔してごちそうになったり、困ったとき借金に応じてくれたり、他の3人にとっての福の神であったように思う。
いつしか善ちゃんは寮を出て自宅通勤になったが、それからも色々と面倒を見てもらった。地元の事はさすがよく知っていて、野里には足を踏み入れるなとか、ここは良心的だとトルコ風呂へ連れて行ってもらったりした事を思い出す。
入社2年目の善ちゃん 1965年5月14日 広峰山ハイキング
善ちゃんは金属部品課配属で、仕事の上ではあまり交流がなかったが、姫路工場合唱部で一緒にコーラスをやった。彼の人柄から当時のコーラス仲間は多く、今でも数年に一度は姫路に集まって交流を続けていたことを姫路仲間から聞いている。
同上写真の拡大
入社5年後私は仕事の関係で姫路を離れることになり、その後善ちゃんとも疎遠になってしまった。
会社を卒業してから石塚さんとのご縁で三八会の存在を知り、参加するようになって善ちゃんがメンバーであることを知り、約35年ぶりの再会に驚きました。
頭は白く薄くなっていましたが柔和な人当たりや思いやりは昔のままでした。
三八会例会での会話だけではお互いに語りつくせない程の長い時間の経過でした。
もっともっと話したかったのに突然の訃報に残念な思いが消えません。
善ちゃん、いずれまたお会いして姫路の昔話などしたいものです。
ご冥福をお祈りいたします。
今から15、6年前の頃だ。三八会の連中の電子メールでのネットワークが出来上がり、頻繁に情報のやりとりが始まっていた。
当時の多かった話題の一つはパソコンの悩み。うまく動かないとか、操作法が分からないとかだった。
仲間内ではPCに詳しい方だというので、色々な人から相談が持ち込まれた。
ある日、善ちゃんから何かを頼まれ、そのやり方を伝授した。
間もなく、「うまくゆかない」「今回も駄目だった」との返事。
これの繰り返しに、業を煮やし、正直
「こいつ本当に真面目にやる気があるのか」と何が問題なのかしつこく問いただすと
「俺のパソコンは一定の時間が経過すると動作が停止する」と言い出した。
知り合いにIT企業の技術者がいて、
「年寄りが使うならこの程度のもので良いだろう」と譲ってくれたのだという。
「使っているうちに時間が経つと止まってしまうPCなぞあるか!?」とは思ったが、
「善ちゃん、俺はパソコンの自作を趣味にしていて、ちょうど今新しいのを作っているので、いま使っているやつを進呈してもいいよ」
と言ったら、二つ返事で
「使ってみる」と言ってきた。
現役の時は会社のPCにすらあまり触ったこともなかった私だが、退職して暇になるとPCの面白さにのめり込んだ。
退職記念に贈られたノートPCに飽き足らなくなり、部品を集めてPCを組み立て、初めて動いたときの感動からPCの自作に完全にはまったのである。
たちまち、自分用に3台も製作し毎日交代で稼働させ、親戚や友人のPCの製作も請け負った。
知り合いの小さな会社でCADを導入するのに1台100万円もするPCが必要だと悩んでいるのを聞きつけ、
俺なら100万円で5台作ってやるといって本当に請け負ってしまったこともあった。
今考えると冷や汗ものだ。
善ちゃんに提供したPC ディスプレイは松下製。当時はディスプレイも作っていた。
東芝の液晶のお得意様であった。
PCにフロッピー・ディスクドライブがあるのが、懐かしい。
善ちゃんにPCを嫁入りさせて一週間ほどして、「うまく動いた」と連絡があった。
作った当人としては、動くのは当たり前なのだが、普通の人はそうは考えられないのだろう。素人が作ったPCがまともに動くのか?
当時、彼からのメールの最後には、話題に関係なく必ず「今日もPCは順調に動いています」との一文がつけられていて、これが一年位続いたのである。
しばらくして、事件は起こった。善ちゃんがウイルスメールを発信したのである。
私宛にもそのウイルスメールが届いたので、彼にすぐ対処するように指示した。PCの初期化である。
PCの初期化とは、ウイルスに汚染したOSを削除し、新しく入れ直すことで、一般の人にはかなり
難しい作業である。間違えば、二度とPCが使えなくなる可能性すらある。
幸いにも、このPCを自作したときに、問題が起きたときにすぐ製作時の状態に復帰させるCD(リカバリ・ディスク)を作ってあった。電話で善ちゃんに小難しい作業を指示した。
恐らく、いままで見たこともないBIOSの画面を眺めながら、慣れない作業や、いらついて、つい言葉が荒くなる私の指示に善ちゃんはよく耐えて、無事PCの初期化・復旧作業は成功した。
しばらくして、三八会で善ちゃんに出会ったときに、ウイルスメールのことを話題にした。
「黙って独りでにウイルス感染するわけないから、あぶな絵のあるサイトを見たのだろう」
「あぶな絵のあるサイトって何?」
「白ばくれるなよ。エロサイトとかアダルトサイトと呼んでいるところだよ」
「いや知らない」と頑張る。
「ウイルスに感染したのが何よりの証拠だよ。でも、こっそり見ているひとはけっこう多いんだから、
感染しないように見ればいいんだよ。どうすれば良いか教えてやろうか?」
と言ったら、案の定乗ってきた。
「じゃぁ、後でメールに注意事項を箇条書きで送るよ」
顔を赤くして、善ちゃんはうれしそうに酒を飲んでいた。
その後、このPCは液晶ディスプレイに黒スジが出始め、だんだん広がり出したという。
彼からディスプレイだけ交換して使いたいと言ってきたが、映像端子の仕様が変わりそれも出来ず、
善ちゃんは新しいPCを買った。約4年間小生自作のPCを愛用してくれたことになる。
いま考えるに、ユーザーのパソコン利用時間を制限したり、利用できるアプリケーションを制限したりできるPCは当時すでに存在した。子供が良俗公序に反する内容のサイトを閲覧しないようにするためである。
善ちゃんが最初に使っていたのはそんなPCだったのかもしれないと、、、
そして私が提供したPCで、思う存分「あぶな絵」の世界を楽しんでいたのかもしれない。
今では、酒でも飲みながら、そのことをもう少し詮索してみたいと思うのだが、残念ながら彼はもういない。
故山田君の三八会思い出のアルバム
私が三八会に入れて頂いたのは、その発足からかなり後でした。初期の活動は知りませんでした。
また、善ちゃんがベルリンへ行っていたことも知りませんでした。
既に記憶が定かでなく、いつ頃かも、正確さも欠いています。
確か善ちゃんが技術管理部いた時だと思います。
当時の通産省から補助金を受けた時です。私は初めての経験で、善ちゃんから色々アドバイスを貰いました。
ワークステーションのような大金の部分は幹事のF社でした。東芝はその上で動かすデータ例の作成でした。
システムが複雑になり、LSIの機能や取扱の説明書類は数百頁にもなり、それらを読んでいたのでは間に合わない。
そこでICや電子部品のシミュレーションデータを用意し、それらを組み合わせたシステムの動作をシミュレーションで確認しようとするものでした。
今後のLSI、ICなどの部品のデータは、コンピュータ上で動作するシミュレーションデータになると。
今はどうなっているのでしょうかね。
コンピュータ上でのデータの作成は、殆ど人件費です。
「税金を使う以上それが正しく使われたことを国民に見えるようにしなければならない」とのこと。
東芝への補助金は4,000万円、10%の400万円は事務費用として報告不要。3,600万円分の報告書が必要でした。東芝だけではできないので、特に電子部品などは他社へ依頼しました。
「X月Y日:Z時間考えました」では駄目で通りません。考えるのは補助金の対象外、考えているのは駄目です。 誰がいつ、何時間このようなデータを作成したとのデータそのものとその日誌が必要です。
こんなものを一々書留めていたのでは仕事になりません。
善ちゃんに相談すると、「後から適切に作ればいい」と。
但し、タイムカードを付ける者の場合には注意するようにと言われました。会議や打合せをしていた時に外出していては駄目です。そりゃそうですよね、社内に居ないのですから。
タイムカードを見ながら日誌や会議の報告を作るのも大変でした。
大部分が架空の絵空事でしたから。矛盾なく適切に作ること、ごたごた言わずに丸く収めること、これが善ちゃんから教えて頂いた時間の節約法でした。
通産省は防衛省とは違い、省内では使わないので紙芝居を見せても通りそうです。大蔵省に見せる時には通産省もこちらの味方です。
但し、報告書は100万円につき1cm以上の厚さが必要。これを国民が見るのですかね。補助金は無駄が多いように思います。
このような税金の使い方、諸悪の根源かも知れません。いや、これは全くの蛇足です。
善ちゃん、その節はいろいろお世話になりました。老生も間もなくそちらへ行きます。引き続きよろしくお願い致します。それはまた。
「善ちゃん、天国はどんな様子? (コロナ)はいないんだろ?
三八会で松田の河津桜、曽我の梅を観に行って善ちゃんと一緒に撮った写真を見ているよ。
15年にもなるんだ~‼ 月日の経つのは早いね。この写真は楽しかったあの日の事をまざまざと蘇らせてくれる。
俺はもうしばらく、三八会を楽しみますよ。 時々メール、送りますね。 元気でな~
小生は仕事上で善ちゃんとはかかわりがなく38会で初めて彼を知りました。
ですから最初は何となく会話もよそよそしく「さん」付けでしたが、話をしているうちに
彼の気さくでウイットに富んだ話の内容としゃべり方の気軽さから、すぐに打ち解け旧知の間柄の
ように話せるようになり、38会で会うたびに積極的に話に行くようになったことを記憶しております。
今でもいつもにこやかに少しどもりながらとりとめもない話に花を咲かせたことを思い出し、
ちょっと早く逝きすぎたことが残念でなりません。
心からのご冥福をお祈りしております。
日限山住民として近所に住んでいるのでいつでも会えるのだが、会社時代も時々バスで乗り合わせる程度で
二人だけで近所で飲む機会がなかったのが残念です。
善ちゃんが他界した二日後、三八会の名簿を奥さんに届けに行った時、他界当日の様子を詳しく
説明してもらったが、奥さんは自責の思いから救命に全力を尽くされたが、のどに詰まったものを吸い出すことに気が回らなかったことを悔やまれていた。
また昔、舞岡公園の散歩の帰りに、拙宅で飲んだコーヒーの味が忘れられないと、近々行こうよと奥さんを
誘っていたらしいが実現せず誠に残念。
善ちゃん、コーヒーをウーバの宅配で天国に届けようか!
誰からも愛され、誰からも慕われ、どんな時でもにこにこして人を引き付ける魅力を持った山田善一郎君。
「名は体を現す」という言葉はまさに善ちゃんそのものを指していると思います。
善ちゃんは姫路工場配属、電子事業部ということもあり、仕事での出会いは(TOSMEC)時代でした。
善ちゃんは技術管理部でセミコン社全体の教育、広報の仕事を豊富な知識と海外経験を活かして活躍していました。
お互い同期ということは分っていましたが、当時は直接親しく話をする機会はありませんでした。
本当に付き合い始めたのは善ちゃんが三八会に入会してからでした。旅行のときトレードマーク(?)の
野球帽をちょっと阿弥陀にかぶり、いろいろジョークを連発し周りを和ませてくれました。
飲み会ではよく通る声で冗談なのか本当なのかわからないひょうきんなスピーチで皆を笑わせてくれました。
もっともっと善ちゃんの話を聞きたかった。ありがとう善ちゃん。天国でもユーモア溢れる話できっと
周りの人を楽しませていると思います。
心からご冥福をお祈りいたします。
善ちゃんを知ったのは、姫路時代だったと思う。
私は機械課にいて、蛍光灯、ブラウン管、半導体などの設備の新設、改造などを担当していた。
善ちゃんはブラウン管の技術にいたのか?同期ということで知ったと思う。
善ちゃんとは、この姫路時代もその後も仕事上のかかわりは全くなかった。
三八会の行事で話をするようになった。
子どもがそのまま大人になったような優しい顔、やさしい性格の人だった。ほんとにいい人だった。
こんなに早く逝くとは思いもしなかった。残念。
天国で奥さんの幸せを思いつつ見つめ、僕らの行動を見守っているのでは。
頼むぜ、善ちゃん。