追悼
原 弘 さん
2006年4月18日、桜の花を追いかけるように原さんが逝かれました。
体調不良を感じ、検査入院された一ヶ月前に行われた新年会には元気な姿を見せていただけに、驚きと悲しみを禁じ得ません。

三八会を代表して、深作さんが弔辞を述べられました。大川さんからの葬儀の様子の報告、その他の方々からの原さんとの生前のお付き合いや思い出を綴った小文をいただきました。

これらを基にささやかながら追悼のページを作成しました。
  弔辞

三八会を代表して弔辞を述べさせて頂きます。
原さん、突然の訃報に接し一同びっくりし、大変悲しく残念でなりません。
三八会とは昭和38年に東芝に入社し主に当時のトランジスタ工場に配属になった同期が集まって
つくっている同期会です。

日本が高度成長に入った時期で、翌年東京オリンピックが開かれた時期でもありました。
原さんとは一緒に東芝に入社し、元気な青春時代を過ごしましたね。
日吉の寮にみんな入寮し、文字通り同じ釜の飯を食べ、勉強会を開いたり夜遅くまで酒を飲みながら語り明かしたこともありましたね。
やがて各自が中堅として成長して行きましたが原さんはテレビ用のICの企画開発に尽力され多大な成果を挙げられました。
役職者となられてからは半導体技術管理部長を勤められ多様な課題をとりまとめられました。
後に東芝マイクロエレクトロニクスに役員として移られ、企画、教育、情報処理、信頼性等幅広く担当されました。
私もこのころ一緒に仕事をさせてもらいましたが突っ込みは大変厳しくよく指導をして頂きました。

しかし仕事を離れると大変温厚でよく飲みに行って語り合ったこともありましたね。
三八会も会員が定年間近になると昔の仲間の気心が知れたもの同志、再びよく集まるようになり現在まで続いております。
最近は仕事の話は減り、もっぱら趣味や健康に関することが話題になりましたね。
北海道旅行も行き、楽しかった思い出が沢山あります。

原さんは最初は余り話しに出さなかったのですが、チェロが趣味であることが知れ渡り、演奏会が開かれるとの事で是非聞かせて欲しいとの要望が皆からありました。
最初佐藤会長が聞きに行き大変感動して会の席で報告してくれました。その演奏の模様は三八会のホームページにも収録されており、今でも聞くことができます。
私もまだ生では聞いてないので次回は必ず行くからと話していたのですが今となってはそれが出来なくなってしまい、残念でなりません。

東芝マイクロエレクトロニクスを退職後はOB会の設立に尽力され、今日まで会長の任にありました。奇しくも本日は東芝マイクロエレクトロニクスの25周年で原さんが祝辞を述べる予定であったと聞いておりましたがこれも出来なくなりさぞかし無念のことだったでしょう。

原さんが築かれた業績は必ずや引き続かれるものと確信しております。

どうぞ安らかに御眠り下さい。

      平成18年4月19日
                          三八会代表 深作 三郎
  原さんのお見送り      大川 成信

原さんのお見送りに行きました。
長野県飯田市の原家の臨済宗菩提寺からおいでいただいた御導師様による告別式となり、お寺さんから
故人の家へお迎えのお経ー御導師様に先導されて親族の葬列が進み、辻辻での人々の野辺送りの拝礼と
お経ーお寺についてからのお経と引導渡しーお別れと、その場その場での故人の立場やお経の意味の解説が
御導師様によって解りやすく行われ、まさに昔からの「野辺送り」を実感できる穏やかなお葬式でした。

引導渡しのあと、深作さんが三八会を代表して弔辞を述べられました。
三八会の由縁、元気はつらつの日吉寮時代のこと、TV用半導体の開発のこと、仕事への情熱と半導体事業
発展への功績のこと、東芝マイクロエレクトロニクス時代のこと、25周年記念祝賀会でのOB会長としての
挨拶を楽しみにしていたこと、三八会北海道旅行のこと、チェロの発表会のこと等々、深作さんならではの
すばらしい弔辞でした。

奥様からは、体調を悪くした様子や亡くなる前はずっとチェロの曲を聴き続けていたこと、皆様のお陰で
幸せな人生を歩むことができたことなど、何回も何回も「ありがとうございました」と涙ながらの御礼の
言葉がありました。

お別れはチェロの友人の生演奏の中、色とりどりのお花にぎっしりと囲まれて、楽譜や愛読の書
(播磨灘物語がありました)などとともに、何とも穏やかな寝顔でした。       

                          -合掌-
お通夜でチェロを弾く仲間達。 曲目はゴルターマン「二つの小品」よりレリジオーソ。
左端が原さんのチェロの先生 八十嶋 龍三氏。
     撮影:本田 英昭さん

   原さんのチェロ演奏会      石塚 洋

平成17年11月20日、赤坂「ドイツ文化会館ホール」で東京ゴーシュの会「ゴーシュ達の音楽会」が和やかに開催された。
「原さん!今年は是非聞かせて!」と頼むと、原さんは照れて
「下手なんだよ。良かったら来て」と快く招待してくれた。
佐藤会長は前年度も聞いており、今回は自ら録音機を持ち込んで原さんの演奏をしっかり録音しようと大変な意気込みでした。小生の方は「チェロの演奏会」などは始めてで、どんな雰囲気の中でするのか想像もつかなかった。演奏者は年齢層も適当にばらついていて、男性、女性半々くらいで、座席も演奏者の隣り合わせでとても和やかな雰囲気であった。
14番目、原さんの演目は「コレッリ作曲;チェロソナタニ短調」と言うものであった。
本人は、発表会当日まで
「上手く出来るか一喜一憂で、落ち着かなかったよ」
と言っていたが本番は素晴らしいものであった。チェロの音色がこんなに迫力のあるものとは思っても見なかった。音楽音痴の小生が感動したのですから、原さんの演奏は見事なものであったのだろう。
一際、拍手も大きかった。
若い門下生の仲間からも原さんは凄く慕われていたようだ。
この演奏会が「原さんとの永遠の別れ」になろうとは、その時勿論考えもしなかった。
お別れした今は、原さんが誇らしげに天国でチェロを弾いている姿が
目に浮かびます。原さん、「素晴らしいチェロ演奏」を有難うございました。安らかに。

                       
   ウクレレとチェロ      小野 智史

原さんとの想い出の第一は、半技Cの技師長室で御世話になったことで、いろいろな難題を抱えて相談に伺うと、いつもあの素晴らしい笑顔でむかえてくれまして、その笑顔を見ていると解決しそうな予感が
し、そしてその通りに解決するのでした。不思議な神通力をもった素晴らしい方でした。
第二の想い出は三八会で作品展の時に音楽の演奏をする案が出たのですが、なんと原さんのチェロと私のウクレレの合奏という話になってしまった時に、原さんと顔をあわせて思わず笑い合ったときでした。
プロ級の原さんのチェロと、ど素人のウクレレなど出来るわけも無いのですが、チェロとウクレレの合奏は未だに聴いたことが無く、自分のウクレレを見るたびに思い出されてなりません。



   原さんを偲んで      阿川 泰

原さんとは、入社して直ぐの日吉寮時代の思い出も沢山ありますが、特に私が身近に感じたのは堀川町からトランジスタ工場のTV用半導体応用技術へ来られた時です。異なった分野でしたが、同じ応用技術の仕事で、同じフロアーで働く毎日でした。原さんは後には自動車用半導体も担当され、私が名古屋に転出した時に後を引き継いでくれました。同期入社ということだけでなく、仕事の面でも随分お世話になったものです。原さんは優しい人だなあといつも感心していました。

 私の娘も原さんにはお世話になりました。娘がTOSMECに入社した時に、原さんもおられ、親切に面倒を見てくれていました。親子2代原さんと親しくさせていただき、懐かしさで一杯です。原さんが新しい世界で幸せな一時を過ごされますようお祈りしています。


     寮祭 真空管 武士道      佐藤 幹郎

最も遠隔の地の出身なのに、日吉寮への入寮指定日は何故か入社式の前日だった。
昼過ぎに寮に到着B306号室に入る。すでに届いていた布団袋を紐解く前に隣の部屋の住人に
挨拶しようとノックすると、どてらのようなものを羽織ってのっそりと出てきたのが原さんだった。
以降、慣れない会社生活、都会生活の情報交換などに最も身近にいて話相手になっていただいた。

約三ヶ月の導入教育と現場実習の後、配属先が決まった。
やっと生活にも慣れた寮を出て、地方の工場や支社店に行く人も多い。
人事部から新人教育の終了とお別れを兼ねて何か行事をするということだった。
「いよいよ本当に(?)学生気分と決別する時がきたのだから、大いに飲んで騒ごう」
「ただ飲むだけでは面白くないから各棟各階対抗の演芸大会をやろう」
というのが寮生の提案だった。
日吉寮は南日吉団地という大きな高層アパートに隣接していることから、野外でこのような騒がしいイベントを開くことに人事部は大いに難色を示したが、結局、この「寮祭」はテニスコートに臨時の舞台を設えて実行することが決定された。

B棟三階のグループは寸劇をやることになったが、シナリオがなかなか決まらない。
打ち合わせ兼練習場所が私の部屋の隣にある娯楽室だったことから、この場所に最も近い住人である小生と原さんが自然と世話役となり、毎夜八時頃から各部屋を回り動員をかけ、シナリオを練り練習したのを思い出す。

もう記憶は定かじゃないが、珍太郎という田舎者の青年が都会へ出てきて毎日通勤する満員電車の中で
痴漢に間違えられたりしながら、都会人として成長して行く様を面白おかしく描いた「珍太郎日記」というのをやり、結構受けたと自負している。
若さと馬鹿さが輝く「珍太郎日記」の上演後の記念写真
二列目左から三人目が原さん、その左端は原さんと同室だった新谷さん、この列の右端に同じく女装した早川さん、その他故人となった石井さんなどの顔ぶれが並ぶ
原さんは真空管の世界へ、我々は半導体へと配属され職場は別れた。
ある日、職場で使用している測定器が故障し、保守用の真空管調達のために行かされたのが原さんの
いる受信管応用技術課だった。
当時、私は怪しげな回路と首っ引きでオーディオ・アンプを作るのに熱中していた。
原さんのいる実験室に入ってみると、そういう趣味の私にとってはまさに「宝物」が沢山転がっているのを発見したのである。
それを知ってからは用もないのにたびたび原さんのところへ行っては、宝の山からいくつかを「拾わせて」もらった。
「ライフ試験が終わってどうせ捨てるやつ、まぁゴミだから、、、」片目をつぶりニヤリと笑う原さんの顔が昨日のことのように目に浮かびます。

一昨年、北海道旅行の三日目、ゴルフ組と観光組の二つのグループに分かれました。
原さんは観光組で北大博物館を訪れ、そこで新渡戸稲造の展示を見て大いに興味を持ったようです。
その後、新渡戸稲造の著書をいろいろ読み漁ったこと、とくに「武士道」に大変感銘を受けたこと、
この本が英語で書かれ、日本人より世界の人に広く読まれ、ルーズベルトやエジソンが愛読したことなどを教わりました。
そして、今度一杯やりながら武士道について語ろうと約束をしました。
その約束を果たせなかったのは今となっては大いに残念です。

原さんが愛した名著の一節を引用して、お見送りの言葉に代えたいと思います。

武士道は一つの独立した道徳の掟としては消滅するかもしれない。
しかしその力はこの地上から消え去ることはない。
その武勇と文徳の教訓は解体されるかもしれない。
しかしその光と栄誉はその廃墟を超えて蘇生するにちがいない。
あの象徴たる桜の花のように、四方の風に吹かれたあと、人生を豊かにする芳香を運んで
人間を祝福しつづけることだろう。

  
    〜新渡戸 稲造 著 「武士道」(奈良本 辰也 訳 三笠書房刊)より〜