石井敏夫君を偲ぶ
                       (文と写真)佐藤幹郎

私と石井君とは日吉寮のB棟三階、同じフロアの住人だった。独身寮に入った頃はみな
それぞれ異なる実習先の工場へ出向き、寮の中での付き合いはほとんどなかった。
朝、洗面所で会えば挨拶する程度だった。

同じフロアに神戸出身のN君という面白い男がいた。ある休日、洗面所で洗濯機を回していたら、N君が来て
「寮の飯は不味いし、たまには美味いものを食いたい。給料日の週の休日に、金を出し合って材料買ってきて、俺の部屋ですき焼きとか作って食わないか?」と誘ってきた。
早速、その晩N君の部屋に四人の男たちが集まって、とてもすき焼きとは言えない変な
鍋を作り、酒を飲んだ。そのときその輪の中に石井君もいて、親しくなった。
同じトランジスタ工場に配属されたこともあり、その後、彼はしょっちゅう私の部屋に
やって来た。
「長野の友人からイナゴの佃煮送ってきた」などと、二人で安酒を飲んだ。


 1963年日吉寮の寮祭で寸劇をやった時のB棟3階のメンバー

石井君はいつも茫洋としていて、酒を飲むと鼻先がポッと赤くなり何とも可愛かった。
しかし、風貌に似合わず「信念のひと」だった。
私は生涯、技術屋でいたいが、会社にいれば いつかは管理職にされてしまうのだろうなという悩みを彼に話していた。

「自分らしく生きようとすると、時には反対されることもあれば非難されることもある。 こう生きるという信念をとことん貫くべき。」
「自分の人生は他の誰でもない自分のためにあるものだ。管理職になるのが嫌だったら会 社を辞めればいい」

細かくは憶えていないが、川崎の飲み屋で彼からこんな風に言われたのを思い出す。

十年ぐらい経ち、そろそろ同期の連中も管理職になり、私も課長になった。 ある日、ふらりと私の席の前に石井君が現れた。
「お前、後悔していないだろうな」と言って笑った。

その晩二人でいつもの居酒屋に行った。 その店は今でもやっていて、川崎に寄る度に飲みに行っては彼を思い出す。


 川崎の居酒屋 丸大ホール本店