余話
                  (文)佐藤 幹郎  2026/03/11


        1970年当時の堀川町工場(荒木田さんの記事より引用)

1976年のことと記憶している。   
朝、出社するとメモがあり、半導体事業部(半ジ)長の西島さんから電話があり、
「明日、朝一番に堀川町工場の(半ジ)長室まで出頭せよ」
とのことだった。
西島さんには彼がトランジスタ工場長の時から薫陶を受け、時には川崎の町に出て一杯飲ませてくれるなど、新人の時から可愛がってもらっていた。

翌朝、西島さんの部屋に行くと入るなり、秘書に作業服を持ってこさせ、
「お前もこれに着替えよ、今日は午前中は俺に付き合え」という。
工場の構内を歩きながら、
「お前も知っていると思うが、国が超LSI研究組合というのを作り、東芝もやっと参加できることになった。    5社が参加する共同研と、ここからの研究成果を製品にするグループ研とに分かれ、グループ研はNECと組むが実際には各社別々に業務をする。
要は、国の金でLSIの製造ラインを新設するのだが、トランジスタ工場や大分工場にはもう新設する敷地がない。
ここ(堀川町)は空いている建屋が沢山ある。これから見て歩く中でお前の良いと思うのがあったら、言ってくれ。   クリーンルームの建設と試作ラインの運営はお前に任す」
と言う。

堀川町工場は東芝の中でも古く、木造の建物が多かった。
「クリーンルームを作るなら、コンクリート造りの大型の建屋の中身をそっくり取っ払って、そこに
新しく造るしかないですね」
「まさに屋上屋を架すだな」
などと会話しながら、二人の足は自然と47号建屋に向かっていた。
この建屋にはダンナーマシンという巨大なガラス溶融炉があり、この工場製で製造される真空管、電球、蛍光灯などのガラス基材を造っていた。
ダンナーマシンはすでに撤去され、残ったフロアでは蛍光灯の生産が行われていた。
生産が数か月後、鹿沼工場へ移管されるので、鹿沼工場のラインが立ち上がるまでの在庫確保のためにフル稼働の状態だった。

ダンナーマシンは強固な土台の上に吹き抜け状態で設置されていたが、それが撤去された建物の中は頑丈で広大な空間が確保されていて、「屋内にさらに部屋を作る方法」でクリーンルームを作るにはまことに好適な場所であった。
西島さんの席に戻ると、彼はすぐさま工務部長を呼び出し、私に47号建屋の図面を渡すよう指示した。

47号建屋の図面は私の手許にはなかなか届かなかった。   
数十年以上も前の資料を見つけるのに、時間を要するとの言い訳があったが、一週間ほど経ってから、届いたのは古文書のような書類だった。
しかも表紙にはGEのトレードマークが印刷されていて、英語で書かれていた。

           
               
GEのマーク

そしてもっと驚いたのは、図面の単位がヤード・ポンド法つまり、インチとヤードで表記されていたことだ。 この建屋は東芝が技術提携したGE社の技術者の指導で建てられたものだった。
早速、メートル法で換算した寸法を入れた図面を書きおこし、これを基にクリーンルームおよび設備レイアウトを書いて、建設工事図面を作るべく、本社の建設部に持ち込んだ。
私の書いた図面を見るなり、担当者からすぐにクレームをいただいた。
「この図面では工事が出来ません。 建物の柱や壁、躯体との取り合いのところが全部中途半端な数値になっていて、それが正しいかどうかわからない」
つまり、ヤードをメートルに換算するときに少数以下何桁まで計算するか、換算桁数を増やしても、数十メートルの建屋規模になると、数十㎝の誤差が生じてしまうというのだ。
結局、どうしたのかと言うと、工事を担当した建設会社のスタッフが、当時まだ普及途上だったレーザ測長機を現場に持ち込んで、一週間かかってあちこちの寸法を実測し、建屋図面をヤードからメトリックに作り直したのだった。

実はヤードポンド法とメートル法の間の問題については、実はLSI寸法上のミルとミクロンの間でも大きな問題を経験している。これについては別項でお話ししたい。

1976年の暮近くになり、私は30名の技術者とともに最新鋭のクリーンルームへ、すなわちトランジスタ工場から堀川超工場へ異動した。そして、この最新の超LSI試作ラインが可能な限り効率よく稼働するよう24時間稼働を目指した。そのため、別に24時3交代間勤務の現場作業員70名がさらに加わった。

VLSIの開発研究は国のプロジェクトとして行われたため、この開発試作ラインの建設から運用に係る費用はすべて国費でまかなわれた。したがって、課員は全員が先ずは「日電東芝情報システム」という合弁会社の社員として出向し、そこからさらに超LSI研究組合へ出向する準公務員(みなし公務員)となった。  課長の私だけが、東芝に半分籍を置く兼務となった。
年度が替わるために、辞令を受けるために、100名もの課員を引率して、東京都港区にあった
通産省研究組合の本部まで出向いたことを今でも鮮明に憶えている。
1978年春には完成したクリーンルームに製造設備が搬入され、ラインが立ち上がった。
東芝内での組織名は開発試作課(開試)となった。

当時、トランジスタ工場は電卓・時計用CMOS LSIの全盛時代で、(三セ)はその専用ラインで繁忙を極めていた。
一方、DRAMやEPROMそれに
などのSiゲートLSIは(二セ)の担当となっていたが、(二セ)の製造設備が古く、かつ研究所が主体で開発したSiゲートの製品群は出来が悪く、大苦戦を強いられていた。 

(開試)はVLSIとしてNMOS Siゲートプロセスをターゲットに置いていたから、製造ラインの検証目的で64kDRAMを流してみたが、(二セ)よりはるかに良い歩留まりを得て、自信を深めていた。  

そんな状況の中、(ニセ)から製造の「応援依頼」がきた。フォード向けの、電子式燃料噴射装置の心臓部を司る12ビットマイクロプロセッサである。 NチャンネルSiゲートプロセスを
用い、当時量産に苦戦していた64kDRAMより一部厳しいデザインルールを採用しているという。 当初は、(開試)が(2セ)より解像度の高い露光装置を持っていたため、一部の行程応援と言う名目であったのだが、フォードから量産受注をしたとのことで、どんどん投入するウェーファの数が増大してゆき、ここが実質上の生産の場となっていった。

は東芝のトップとして財界の荒法師と異名をとった土光さんが直接指揮をとるプロジェクトとして知られていた。真っ先にフォローを受ける西島さんはそれを意識して堀川町にこのラインを作ったのであろうか、、、
そして、なかなかフォードからの正式注文が出ない中、金食い虫と揶揄されながら、何とか持ちこたえたのはVLSI研究組合のグループ研究所として、マイコンチップの試作が出来たことが
大きいと言えるであろう。 何故ならほとんどのチップは「国費」で作られたのだから。

(開試)の壁一枚隔てた向こうで、フル稼働を行っていた蛍光灯の生産は、鹿沼工場へ移管が
終わり、静かになっていた。
 それを見据えたようにある部長(もう名前が記憶にない)が私の許にやってきた。 蛍光灯生産が終わった「跡地」にF社に納入するEEC-1モジュールを生産するラインを作るのだという。
私はその時に「弁当箱」と称された電子式燃料噴射制御モジュールというのを初めて見せてもらった。
EEC-1モジュールを生産ラインのレイアウト案というのが提示されたが、意外と小規模のものであった。
マイコンチップをセラミックパッケージに挿入して組み立てる工程、出来上がったICのテスト装置、検査後のICをプリント基板に手作業で実装する工程など、大型の作業台を10台ほど並べたものだった。  当時はまだこのようなアセンブリ工程をクリーンルームの中で行うという意識がまったくなかったせいもある。

EEC-1モジュールの生産ラインの話はほどなくして消えたようだった。客先からモジュールの形での発注がなくなったためということだった。  
そしてこの話の後を追うように、トランジスタ工場から、デジタル腕時計組み立てラインをつくる話がもちこまれた。フルデジタル液晶表示の腕時計は、LSIと液晶表示モジュールを入れる「時計のケース」だけあれば簡単に作れるという発想だった。
ICを作っている日本の企業はみな同じ発想をもっていたという。
しかし、この計画もほどなくして立ち消えになった。 その後、時計屋でないメーカが時計を作れるようになったのはカシオだけだった