布施昇さんを偲んで  2022年5月逝去

 布施さんの思い出    河原寿一(特別寄稿)

S49年姫路工場転勤時にお世話になりました。社宅の広場で子供を遊ばせていると可愛がってくれました。
生産会議で稲葉さんと延々と激論を交わし姫路工場の面々を驚かせたり、帰休時半導体部門はゴルフ、
姫路工場は帰休対策研修会、で顰蹙を買ったことなど思い起こします。

(トラ)長をされておられたおり、機械工具課の工作機械の導入を応援していただき、生産効率の向上が
計れました。

退職後鈴本さんが幹事をされた東京CCでのゴルフ会の総大将をされ数年一緒にプレーしました。
最終ホールのグリーン奥からプレーぶりを拝見すれば、その日の出来が簡単に判りました。

優しい気持ちはお持ちなのに、琴線に触れる事には我慢できず、直ぐに態度にでる方でしたね。

洗礼を受けておられ、戸塚のカトリック教会で行われた葬儀には、家内が参加しました。
奥様が遺影を抱いて進まれる出棺時、女性聖歌隊が「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)を静かに合唱し、
お見送りをしたそうです。
これは奥様のご希望だったのでしょうが、ご夫妻の絆の強さに大変感動を受けたと申しておりました。    
                         
                                    合掌


  三八会作品展(2004年7月)にお見えになった布施さんを囲んで


  布施昇先輩を偲ぶ        石塚洋

昭和38年(1963)7月、東芝トランジスタ工場配属以来、優しく、時には厳しくご指導いた
布施先輩の訃報に接し、寂しさ募るばかりです。
当時、配属先の第二製造課は「合金型ゲルマニウムTR」の全盛時代で、携帯ラジオ「ヤングセブン」向けで現場は大わらわでした。増産に次ぐ増産で急遽、姫路工場への移管がすすめられた。

第二製造課は間もなく「シリコンプレーナーTR」の試作ライン造りが計画され、小生はそちらに配置替えとなった。
以後、担当技術部G長だった布施先輩とのお付き合いが一層深まりました。
「シリコン半導体」の知識皆無の我々のため「技術打ち合わせ」と称して毎週2回、「RCA 作業標準(通称:RCA SN)」の輪読が開始された。

講師の布施さんが白板にすらすらと書き始めたその時「この先輩は何と字の上手い方だ」と思った。
ビックリする程の書体であった。小生もこの様に字を上手く書きたいと思い、先輩の「なぐり書きメモ」を大切に保管した想い出が蘇ってくる。

ある年の仕事納めの日、今日は「技術打ち合わせ」はないだろうと思っていたが先輩はその日も来てくれた。
この日は小生が「RCA SN」を訳し発表する日であった。
文中「クラス100 クリーンルーム」と言う文言があり、その内容を問われた。小生が答えられずもじもじしていたら
「ただ日本語に訳すのなら中学生でも出来る!クラス100CRとは一体何ぞやを君なりに調べ、その内容を発表するのがお前の役目だろ!」
と烈火のごとく叱られた。

翌年2月に「RCAに工場実習に行ってくれ!」と当時西島製造部長に言われた。
布施先輩のお口添えがあったのだろうと今でも感謝している。

仕事ばかりではなく早川 純さんの車で「神奈川CC」(先輩のホームコース)、「木更津GC」
(早川さん)、「秦野CC」(石塚、安島さん)、この3つのコースを毎月順番に回る事を続けた。
布施先輩のゴルフは決して凄みはありませんでしたが楽しいゴルフでした。

 

会社では汚いタオルを腰に下げぶらついていましたが、ゴルフ場での先輩は帽子から着るものすべて
お洒落でダンディでした。先輩は「オリンピックゲーム」で稼ぎまくりましたね。

毎月開催されたこの4人組ゴルフの写真が何故かない。
写真を撮る暇なくゴルフに打ち込んでいた訳でもあるまい。
布施さん、稲葉さん、小西さんとの写真を探し出したのでここに貼っておきます。

布施さん、稲葉さんもあちらの人となり寂しい限りです。
布施さん、いろいろ我儘言ってすみませんでした。御恩は忘れません。
安らかにお休み下さい。有難うございました。
                            合掌

 


 布施さんの思い出 〜拡散炉二題〜    佐藤幹郎

(その1)
新入社員当時は、クリーンルームもなく、製造装置も全て「手造り」の時代だった。
最初にやらされたのは拡散炉作りだった。
セラミックの炉心管にカンタルや白金の線を巻き付けた上に、水に浸して柔らかくしたアスベストの帯を
巻き付けた代物だった。
スライダック(電圧調整器)を使って少しずつ電流を流し、図のようなデータを取った。
    
    

当時は高度な温度コントローラなど簡単に使えないから、一定電流を流し、平衡状態になった温度を用いて
色々な熱処理を行っていた。
拡散炉作りは、右も左も分からない新入社員には格好の仕事だったのかも知れない。
ある日、上司から「お前の作った炉で実験したいひとがいる。今晩、徹夜しろ」と言われた。
当時は、一寸した実験を行うには、徹夜というのが普通だった。

午後6時頃現れたのが、布施さんだった。富沢さんという部下を連れて現れ、
「拡散型のゲルマニュームトランジスタを作る。炉で加熱し、これに不純物を入れる」
と言って、食パンの形をした小さなウエーファを示した。
髪はボウボウ、作業衣も着ず、腰手ぬぐいをした姿にまずはびっくりした。

午後十時頃実験が一区切りし、彼は二階の自分の机に戻っていったとき、守衛室から電話がかかってきた。
「布施さんの奥さんが来られています」降りてゆくと、若い女性がいて、
「布施の家内です。これお夜食です。皆さんで召し上がってください」とお重らしい包みを渡された。
持ち帰って、富沢さんに伝えると、
「さすが、新婚ホヤホヤ、ご馳走が入っているんだろうな」と布施さんに連絡。
二階から飛ぶように上がってきた布施さんは
「お前らに食わせるようなものは入っていない」と言うや、荷物を抱えて急いでまた自分の席に戻っていった。
しょうがなく、富沢さんと私は、昼間、古市場で買ってきた菓子パンを食べた。

年月は流れ、布施さんは工場長に昇進した。「何だか急に服装が良くなった」と工場中の評判になった。
苦しそうに慣れないネクタイを締めた布施さんを会議の席でジロジロ観察していたら、「何だ!お前」と
一喝された。

(その2)
1986年、私は大分工場の製造部にいた。その頃東芝は1MDRAMの量産で世界の先頭に立ち、次の4MDRAMを
立ち上げるべく新しい製造棟を完成させていた。
この頃、日本の半導体メーカはそろって設備投資に走っていたので、製造装置の納入がネックになり、新棟の
稼働が思うように進まなかった。
最大のボトルネックは拡散炉だった。メーカを調べると東京エレクトロン。
何と最近、布施さんが東芝退職後にこの会社の常務取締役に就任、それも拡散炉担当というではないか。

早速、アポイントをとり、当時新横浜にあった布施さんのオフィスに朝一番で乗り込んだ。
会議が始まると、開口一番
「お前の工場で製造している16KCMOS SRAMが最大のネックで、それが故に拡散炉のコントローラが
作れない。この部屋を貸すから、午前中に弊社宛の日割りのデリバリ表を出せ。
そしたら、お前の所に入れる拡散炉の納期を即答してやる」
確かにこのICは東芝しか製造しておらず、つい先日も海外の顧客が大分まで押しかけてきた代物だった。

ペレット、組み立て、テストなど工程別にあちこち電話をかけまくって2時間以上かかって何とか行程進捗表を
作りあげた。布施さんに渡すと、ほどなく彼の部下からデリバリ表が出てきて何とか妥協できる線が見えた。
「さすが製造部長、これで手を打とう。手打ちの盃といこうじゃなか」という。

「先輩、まだ日が高い。こんな時間に開いている飲み屋などないでしょう」と言うと、いいところがあるんだと言う。
つれて行かれた所は「吉田屋」という開業が安政三年という高級蕎麦屋だった。
そこで昼酒を飲みながら、布施さんとの出会いはゲルマニュームの拡散炉だったという話をしたが、彼は
憶えていなかった。

今年、四月に仲間と横浜の江川せせらぎ緑道に花見に行った。そのとき、この流れの畔に「吉田屋」があることを
知った。
懐かしさのあまり近くまで行って、写真を撮ってきたが、布施さんと行った当時のものかどうかは定かではないが、立派な門構えの店ではあった。
いつか機会があったら、ここへ行って布施さんを思い出しながら一杯やりたいものだ。

 
   
そば・炭火焼きダイニング 吉田屋




 布施 昇先輩を偲んで      早川純
 
布施さんのことを知ったのは、姫路工場工務部機械課にいた頃だったと思います。
太子工場の脇の斑鳩社宅の道路側の広場でゴルフクラブを振っておられたのをお見かけしたか、あるいは
その噂を聞いたかどちらかだったと思います。当時、お話したことはありませんでした。

その後、私は新設された姫路工場工務部半導体機械設計担当から、(タマ)生産部設備Gに転勤となりなりましたが、当時の(タマ)長は川西さんで、そのあとに布施さんが就任されました。

布施さんは設備申請書を提出すると何件かに1件は必ず突き返されました。しばらくおいてから説明にいきOKをもらいました。きちんとやっているかチェックされていたのだと思います。

堀川町工場の半導体製造部の時、外注問題で事業部長だった布施さんのご指導をいただいたこともありました。
その後、私はトスコム、基板事業部、芝浦製作所と移り変わり、会社生活を終えましたが、三八会の作品展で布施さんとお会いすることになりました。

そして、ゴルフが始まりました。布施さんとのゴルフ会は、石塚さん、安島さんのメンバーで、石塚さん、安島さんの秦野ゴルフクラブ、布施さんのゴルフ場及び私の木更津ゴルフクラブへと順繰りにやるのを常としていました。
行くときは、布施さんを迎えに行き、東戸塚駅で石塚さん、安島さんをひろい、楽しみました。
布施さんのゴルフは淡泊でボールを見ていないのではないかというスイングでした。
そんなこんなで数年間ご一緒しました。
夏のゴルフ帰りには厚木でかき氷を食べるのを楽しみにし、4人で必死に氷の看板を探したものでした。

こんなに早くお亡くなりになるとは思ってもいませんでした。

長年のご指導ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。 合掌